バズマザーズというバンドのナイトクライヌードルベンダーって曲の歌詞がエモいからただ話させて
詩って、素敵ですよね。
短い言葉を用いて段落に分けて一つ一つ整理して、何かについて気持ちを込めて熱く語る。
その気持ちが強くこちらに響いてくるのはとても素敵だなと。
歌になるとその言葉がメロディに乗って、さらに心を突き動かされるような。
言っていることがよくわからなくなってきました。
とにかくエモいってことです。
さて、古来から日本では掛詞にして詩を書く文化があります。
短歌は特にすごいですよね。もうかかりまくりのかかりまくりで。
さらに、日本語はひらがな、カタカナ、漢字を組み合わせて、様々なボキャブラリーがあって、それを教養として詩に組み合わせることもあります。
掛詞とボキャブラリー。
ボキャブラリーが増えれば増えるほど、日本では特に同音の読みが多いため、掛かる言葉が増えていきます。
詩を書くってそれを用いた極致というか。
それらをうまく用いて、響きを表現するというか。
まあ、なんというかこれらがすごい歌詞はエモいというか。
歌詞って素敵なんですよ。素敵すぎてもうたまりませんよね。最近の事情で家にいることも増えて、音楽を聴きながら何かすることも増えた気がします。
そんなわけで私が好きな曲である、バズマザーズというバンドのナイトクライヌードルベンダーという曲の歌詞について話させてください。
この曲、本当に歌詞が凄すぎて。個人的な解釈とはいえ、意味がわかった時にあまりにも驚いてしまって。
それと同時に歌詞が心の直に突き刺さるような感覚を初めて味わった一曲です。
ナイトクライヌードルベンダー。タイトルがかなり長いですよね。長いからこそ、このタイトルが掛詞まみれでして。
こちらは後述させていただきます。
それでは一部の歌詞、特に私の心に響いた歌詞を抜粋して紹介させていただきますね。
(あくまで個人的な解釈です。様々な意見はあると思いますが、一意見として参考にしていただければと。)
煙草(えんそう)はあるがライターが無い事と道はあるが目的地は無い事
一番のAメロの歌詞からです。
タバコはあるがライターがない。
タバコを吸うための手段としてライターは存在します。その逆の様々な道という目的地につくための手段はあるのに肝心の目的地が無いという言葉が続きます。
つまり語り手が手段も目的も持っていなかったことに気づく歌詞になっているんじゃないかと。
しかし、この歌詞、タバコをわざわざ「えんそう」って言ってるんですよね。
この「煙草」は「演奏」とかかっていて、「ライター(lighter)」は「ライター(writer)」、つまり作詞、作曲者と掛けた言葉だと思います。
演奏はできてもライター、つまり曲がなければ音楽はできないわけで。これは手段を演奏、目的を作曲とするか、手段を作曲、目的を演奏とするかは意見が分かれそうですが、次に続く道と目的地に通じる言葉であることは間違い無いかと。
作曲家である人だからこそ思いつく歌詞だなと。
とかく美しく、エモい歌詞です。
※追記
タイトルに含まれている「ヌードル(noodle)」。「noodle around」という慣用句があり、意味は「目的もなく彷徨うこと」というそうです。さらに言うと「noodle」のスラングとして「即興演奏する」って意味もあるそうです、、、
ナイトクライヌードルベンダーまだ間に合うかい?俺はここに居たくもないが行く宛てもない
ナイトクライヌードルベンダーまだ間に合うかい?
俺は祈るような姿勢になって 幻視の幻を待ってる
サビの歌詞からです。
この曲はサビの歌詞がずっと変わらないんですよね。このサビがいかに強調したい歌詞かがわかります。では「ナイトクライヌードルベンダー」とはなんぞや?と。
ラーメン屋の屋台ってありますよね。
チャルメラのパッケージのアレです。
実はその屋台には「夜泣き蕎麦」という別の言い方があります。また「夜鷹そば」とも言います。これは江戸時代に起源があると言われております。
これについては実はその名称で呼ばれ始めた起源が曖昧でして、少し脱線しますがその中の説を二つほど解説させてください。
江戸時代の娼婦の中で夜鷹という、ゴサを担いで夜に客を引いた身分の低い娼婦を江戸での呼び名でそう言ったそうです。
そこからこの娼婦が体を売った値段が当時の屋台蕎麦の値段と同じだったからという説と、そんな低い身分の夜鷹が夜売りの蕎麦を食べていたからという説があるそうです。
悲しい話ではありますが、前者は少し洒落ていて日本的でいいなと思いました。
ナイトクライヌードルベンダー。言葉をわければ、「ナイト」は夜、「クライ」は泣く、「ヌードル」は麺、そして「ベンダー(vender)」は売り手、となります。つまり夜のラーメン屋の屋台そのもののことを言っているわけです。
とすると続く歌詞の意味もわかってきます。全部このナイトクライヌードルベンダーに収束しています。
「まだ間に合うかい?」は夜に営業するラーメン屋に「やってるかい?」と声をかける、いわばあいさつのような言葉です。それならば「まだやってるかい?」でいいと思いますが、ここではあえて「まだ間に合うかい?」にしています。
これは自身の人生に問いかけるように「まだ間に合うかい?」という言葉を自問しているのだと思います。
次に「俺はここに居たくもないが行く宛もない」という歌詞も、夜中に何気なく立ち寄るラーメン屋の屋台にいるからこそ続く言葉です。
また、Aメロで綴られた「道はあるが目的地がない」語り手の人生を描いた言葉でもあると思います。
最後に「俺は祈るような姿勢になって幻視の幻を待ってる」という歌詞でサビは終わります。
この「祈るような姿勢」は、座っている時の姿勢だな、と。
頭を下げて、机に肘を立てて、おでこに手の甲を持っていって、指を交差させて、、、そんなうなだれてなんとも言えない気持ちの時の姿勢です。それはまるで祈るような姿勢に見えます。
「幻視の幻」という言葉。重複している言葉で、頭痛が痛いような感覚を覚えます。
ですがおそらく、これは視覚という意味を強調するべく、幻に合わせて幻視という単語を前に置いているのだと思います。
ならばなぜ、視覚、目なのか。
それはラーメンの湯気に起因しています。
続く「待ってる」の歌詞がが注文を待ってる様子と重なることからもラーメンの湯気であることが頷けます。
湯気は目に見えるものですが、幻のように実体のないもので、掴むことはできません。
気持ちも定まらず落ち着がない時に何気なく立ち寄った屋台でとりあえず注文して、うなだれて注文した湯気の幻を放つラーメンを待っている。
その様子と「祈りながら決して叶わない夢の幻想が来るのを待っている」ことを掛けているわけです。
個人的にメチャエモポイントなんですが、夢という幻に語り手は「向かって」なくて「待って」いるんです。
だって「目的地がない」んだから。
語り手は待つしか無いんです。なんというかありとあらゆる人の気持ちに近しく、恐ろしいほどに哀しい表現をこのサビに費やしているなあと。
この歌詞をまとめながらうーむうーむと唸りに唸ってます。
まあ、個人的な意見ではあるのですが。
先客達は皆笑顔だが 掌を藁で切ってる
2番のAメロ。
掌を藁で切る、この表現も実に見事でして。
「藁にも縋る」という言葉あります。その言葉から、藁に掌を切るほど必死でしがみついて来た人々という表現をたったこれだけで表しているんだと。本当にすごい。
そして、この藁にはもう一つ表現があると思っています。
それは、「わらしべ長者」のお話です。
このお話では主人公が藁から様々なものを物々交換して最終的にお金持ちになるお話です。
しかし、彼ら「先客達」は藁にもすがるほどに藁を強く握って生きてきたわけです。つまり彼らは藁から先に行くことは出来なかった、という意味も含まれているのではないかと。これもまた、彼らには目的地こと「行く宛」が無いからなのだと思います。
この歌詞は、簡潔に言えば夜泣きそばに集っていた先客の方々は酔っ払いながら笑顔で昔の経験、それも失敗した経験を悔しがるように、あるいは皮肉めいたように語らっているだけの歌詞なんです。
おそらく「やらなかった、出来なかった後悔」故の話なのかもしれません。
ちなみに「ヌードル(noodle)」には「馬鹿者」、「ベンダー(bender)」には「大酒飲み」という意味があります。
タイトルの英語の掛詞がここにも含まれているのです。
「私、年の頃あんた程の娘がお嫁に行った事を
頑張れをニ回、負けるなを一回
心の中で呟いたのは一体誰の為だった?
最後の大サビ前の歌詞です。
この衆道というのは男性の同性愛者のことです。
何十年も前、彼には娘がいました。しかし、自身の犯罪により妻共々絶縁となり、さらには長い期間投獄されていたわけです。長い間の獄中生活のある日、自分の娘であった女の子の成長を知ったのです。それは大変喜ばしいことでした。
しかし、自分からは更に遠く離れて行ってしまう娘であった女の子。そんな顔ももうわからない彼女を後悔や無念に打ちひしがれながら、漠然と想うことしかできなかった。そんな衆道の人生が一つの台詞に集約されているのだと思います。
台詞一つだけで登場人物の人生の全てが綺麗にこちらに伝わる表現です。凄すぎて最早恐ろしいです。私はこんな文章を読んだことなかったですし、なんて切なく美しい言葉の羅列だろうと感動してしまいました。
そしてタイトルの(おそらく、、、まだまだありそう)最後の掛詞。「ヌードル(noodle)」の慣用句的な表現として「wet noodle(意味:くよくよした)」のような感情的な表現ができるそうです。「ベンダー(bender)」には「女役の同性愛者」という意味があるのです。
このタイトル、掛詞の大渋滞なのです。
マジで何個かけてるんだかわかりません。探せば探すほど見つかります。歌詞にその意味まんまの言葉が出てくるのが憎いんですよね。仮に拡大解釈だとしてもそう感じてしまうというか。ただただ作詞の芸術性に驚かされるばかりです。
まとめ
一切まとまってない感情麻痺のような歌詞の解釈と解説をしてしまいました。私がこの曲に受けた感動の1割も私は言葉に出来ませんでした。深刻なボキャ貧と無教養がなせる技です。作詞家の人って本当に凄い、、、
最後に私なりの考えですが。歌詞は作者が思い描いたものがたしかに正解です。しかし、それは正解の一つであり、聞いた人が考え、感じたことも全て正解であると思います。
今回の日記が聞いたことある人もない人もこの曲から感じとる「何か」、その「何か」の一助になれば幸いです。
うわーなんだこのぶちまけただけの日記!!
だー!ごめんなさい!!
以上です!!