矢も盾もたまらなくなって……

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先日、カート・ヴォネガット・ジュニアの『母なる夜』を読んでいたら、「矢も盾もたまらなくなって」という表現が出てきた。

 


「矢も盾もたまらなくなって」。

この表現は、アパートメントに住む主人公ハワード・W・キャンベルが、自作のチェスの駒を階下の住人ジョージ・クラフトに見せに行く場面で登場するものである。

わたしは靴箱に入れて持っていた自家製のチェスの駒をクラフトに見せた。「さっき彫り上げたばかりです」とわたしは言った。「使ってみたいと思い立ったら、矢も盾もたまらなくなって」

正直に言えば見たことのない表現だった……とはいえ、その意味を推測することはできた。細かい意味は分からないので置いておくとしても、その響き、そして「出来立てのチェスの駒を早くほかの人に見せたい!」という文脈から考えれば、この慣用句が「居ても立っても居られない」の類語であることは想像がつく。

と、そこで気づいた……私は今まで、「いてもたっても」を「居ても立っても」だと思い込んでいた。落ち着きのないそわそわした「あーっ 座っても立ってもいられない! 早く動きたい!」という様子を、文字に起こして表したものだと思い込んでいたのだ。
だが、ここに来て「矢も盾もたまらず」という表現を見つけた。この表現の存在を知ったことで、「いてもたっても」が「射手(or 射って)も盾も」である可能性が出てきた。


「矢も盾も」……「射手も盾も」……

 

もし、「いてもたっても」が「射手(or 射って)も盾も」、つまり(つまり?)「a shooter (or one shot) and a shield」であった場合……字面、文脈、そして「いてもたっても」の意味から考えるに、「あーっ 攻撃も防御もやってらんない! 早く動きたい!」ということなのだろうけど、えーっ 本当にそうだろうか???
だってさあ、攻撃も防御もアプローチの方法じゃないですか。「矢で射る」ということも「盾で守る」ということもひとつのアクション。ってことは……それってもう動いてね? って、思っちゃうわけです。

攻撃/防御という表現がちょっと過激だなって思うなら、能動/受動という言葉に置き換えてもいい。能動的であろうと受動的であろうと、それはアプローチ方法が違うだけで、結果的に対象に何かしらの働きかけを行っているということなんですよ。
つまり、「矢も盾もたまらず」はアグレッション的な観点からいえば「居ても立ってもいられず」を超えるものである、ということが言えるのではないか――


……というところに落とし込みたかったのだが、いま一度、「矢も盾もたまらず」という表現をよく見てほしい。
矢も盾もたまらず」……この「たまらず」は、「[動]堪る+[助動]ず」という 2 文節からなっている。またこの慣用句における「堪る」は、「我慢」の意である。つまり「矢も盾もたまらず」は「矢も盾も我慢できず」ということになる。
字面をストレートに解釈すれば、「あーっ もうやってらんない! 早く矢を射ったり盾で守ったりしたい!」ということであろう。つまり、この時点ではまだ矢も盾も用いていないのだ。
一方、「いてもたってもいられず」の場合だが、この慣用句が「射手(or 射って)も盾もいられず」であった場合、再三ではあるがその意味は「あーっ 攻撃も防御もやってらんない!早く動きたい!」ということになる。自軍の要塞から矢を放っている、もしくは盾で守っている兵士の、現状を脱して敵陣に向かっていきたいという強い心情が伺えるが、いずれにせよ、この時点で既に矢を射ったり盾で守ったりしていることは明白である。
つまり、アグレッション的な観点でいえば明らかに
射手(or 射って)も盾もいられず矢も盾もたまらず
なのである。
しかしながら、管見の限り「いてもたってもいられない」に「居ても立っても居られない」以外の当て字は見当たらなかった。よって、辞書的な観点からいえば「居ても立っても居られない」は「あーっ 座っても立ってもいられない! 早く動きたい!」というシチュエーションに限定される。立ったり座ったりスクワットをしているだけの雑魚が弓矢や盾を持った(場合によってはもう既に撃ち始めている)兵士に勝てるわけがないので、アグレッション的な視点から言えば
射手(or 射って)も盾もいられず矢も盾もたまらず居ても立っても居られず
ということになるのである……

 


 

こうした見慣れない表現に出会うというのは、他人の創作物に触れる楽しみのひとつですね。自分の知らなかった表現を知り、それに影響を受けて文章を書いて、その表現がまた他人に影響を与えて……という連鎖が面白いなあと思う。
本稿であげたカート・ヴォネガット・ジュニアの『母なる夜』は、以前インターネットで見た一節に惹かれて何年も前に買ったものでした。その一節がこちら。

「われわれは、そのふりをするところのものとなる。」

購入してすぐに読み始めて、この一節を探しました。ただ、当時は物語自体がよく理解できなくて面白味を感じられなかったし、なにより上記の一節を見つけることもできなかった。そのため、何年も放置していたのです。

今年の夏に時間ができたので数年ぶりに手に取ってみたらめっちゃ面白くて、バーッと読んでしまった。成長したから読めるようになった、というのも多々あると思います。
そして、購入してから数年経ってようやく言えることですが、当の上記の一節に該当する部分は……なんと冒頭 1 ページ目にありました。では、なぜ気づけなかったのか?

実は、この『母なる夜』には新旧2バージョンあるようなのです。どうやら早川書房から出るよりも前に、白水社から池澤夏樹氏による邦訳版がリリースされていたらしい。そして私が買ったのはハヤカワ文庫版……上記の訳文は、きっとその旧訳版のモノだったんですね。

私が読んだ飛田茂雄氏による新訳版では、以下のようになっていました。

「われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。」

そのあとには「だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない」と続きます。「学ぶ」という言葉が「まねぶ」に由来する、というのは有名な話だし、やばいやつのふりをしてると本当にやばいやつになってしまう、みたいなのもよく聞くし。まあ、気を付けて生きていこうな、ということです。

「は?女に生まれたから女やってる雑魚より男に生まれてるのに女になりたいヤツのほうが女やろ」という言葉に近いことを何十年も前に語っていたカート・ヴォネガットの先見の明には驚かされますね。。。