「あえて複数回鑑賞するからこそ、見えることもある」。――『シン・ウルトラマン』感想

去る5月13日に公開された、樋口真嗣監督作品『シン・ウルトラマン』の話です。

 


 

私的『シン・ウルトラマン』初回は、公開日である5月13日でした……が、その前に、

「2016年に公開された庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』を劇場で観た時の衝撃を忘れられない私は、『シン・ウルトラマン』にもこの上ない期待を寄せていた」、という話をしましょう。

もともと、いわゆる“怪獣特撮作品”というジャンルに対しては、すごく失礼な言い方にはなりますが、全体的にチープな印象を強く持っていました。怪獣の造形アイデアには度肝を抜かれるものも多いし、ミニチュアの緻密さには驚かされるし、子供向けとは思えない素晴らしい脚本も多いと聞きますが、どうしても「模型の街を破壊する着ぐるみの作品」という視点から抜け出すことが難しく、「巨大な生物が実際の街を破壊している、やばい!」というノリに自分を持っていくことができませんでした。

そんな印象を塗り替えてくれた作品が『シン・ゴジラ』でした。あれはすごかった。現代にゴジラが現れた時、日本はどう対処するのか? というテーマをベースに物語が進むわけですが、映像にも本当に妥協を感じず、「日本の今の技術ではハリウッドに追いつけなくても、でも出せるものは出し切ります」という逃げない姿勢が随所から伝わってきて、それがすごくよかったんですよね。日本映画ってここまでできるんだ……という感動があった。「ハリウッドに追いつけない」、という表現はしたものの、シーンによっては「ハリウッドとは違うけどこれはこれでいい意味の日本産CGという感じがするし、なんならハリウッドよりクオリティ高いよね」と思える部分も多く、そこも印象的でした。

そんな庵野監督作品『シン・ゴジラ』を経て(あと『シン・エヴァ』を経て)、今度は樋口真嗣監督、企画・脚本庵野秀明で生み出される『シン・ウルトラマン』。ワクワクしながら臨むは、2022年5月13日、初夏の池袋です。

 

《初回の感想》

先に言ってしまうと、『シン・ウルトラマン』初回の感想としては「うーん……」という感じでした。

 

「うーん……」の内訳は、(『シン・ゴジラ』が完璧だったがゆえに期待しすぎたかな? でもポスト『シン・ゴジラ』時代の作品なんだから、『シン・ゴジラ』以上の衝撃的な作品を期待するのは当然で……もちろんいいところ、素晴らしいところはあって、故にまったく「駄作」とは思わないんだけど、他方、すごく惜しいところやもうちょっと頑張ってほしいところ、また「なんでそれなんだろう」ってところや、なくてもいいんじゃないのっていうところがかなり多くて、自分の中で萎えてしまったという面は非常に、大いにある。再三だけど、いい部分は本当によかったし、本当に素晴らしい部分もあった。あったんだけど、そういう「すごくいいですねポイント」と「かなり微妙ですねポイント」が戦い合って、対消滅して、結果:凡庸、みたいな感じかな…… とにかく、『シン・ゴジラ』を観終わった後に感じた「やばい、本当にとんでもない作品を観てしまった」というような、劇場に入る前と劇場から出た後の世界が全く変わってしまうような衝撃はそこまでなかった。これは『ゴジラ』と『ウルトラマン』の作品性の違いでもあるとは思うし、その差異は意図的なものだと思う。思うんだけど……でも『シン・ウルトラマン』にも『シン・ゴジラ』的な作品で在ってほしかったし、)うーん……」というところです。あくまで初回の感想ね。

 

2016年の『シン・ゴジラ』を観た時の衝撃、あれを超えることを期待したわけですが、残念ながらそうはいかなかった……ですね。そう感じた理由はいくつかあるのですが、まずはそのひとつとして、本作のリアリティラインの低さが挙げられます。

『シン・ウルトラマン』の舞台は、「禍威獣」と呼ばれる敵性大型生物がすでに数体出現しはじめている現代日本。禍威獣被害に対処すべく、新たな省庁「防災庁」が発足し、その中に禍威獣退治の専門家5人からなる「禍特対」という架空の組織が設置されている、そんな世界です。これだけであれば文字通りポスト・『シン・ゴジラ』世界っぽいとも思うのですが、禍特対メンバーが5人+1人(宗像室長)しかおらず、その6名で禍威獣退治の方針決定を行う違和感は、鑑賞中、非常に大きかったです。巨災対の規模感を考えると、少し人数が足りないのではないかと思った。そのほか、物語の舞台となるロケーションが曖昧な点であったり、また作中に登場していたSNSやOSのフォント/ロゴ/アイコン/SEが「本物風」に留まっていた点、ほかにも(少しベクトルは違う「リアリティ」の話ですが)フィクショナルな言い回しが多かった点など、リアリティレベルの低さを感じて、少し萎えてしまった部分がありました。もっとも、禍特対メンバーの人数などは初代『ウルトラマン』の科特隊メンバー数を意識したものでしょうし、リアリティラインの設定は意図的なのだろうと思います。「フィクションなんだから過度なリアリティは必要ない」と言われればその通りだし、初代『ウルトラマン』も数話しか見たことないけどけっこうコメディチックな部分があるし、そもそも映画の最初の最初のロゴに「空想特撮映画・・・・・・ シン・ウルトラマン」って書いてあるんですよね。そう、「空想特撮映画」なんです。だから、はじめから『シン・ゴジラ』ほどのリアリティはそもそも目指していなかったんでしょうね。ただ、そういうリアリティ追及の方向性というか、「リアルなのかアンリアルなのかはっきりしてほしいのにどっちつかずになっている」という部分が、自分とは決定的に合わなかったです。

また、本作で感じた「下品さ」も、少し自分としては気になってしまいました。いわゆる「巨大長澤まさみ」のシーンなどはTwitterでもかなり議論を呼んでいた点だと思いますが、それ以外にも観ていて引くくらい気まずいシーンはあって、そういった部分は少し解釈違いでした(『ウルトラマン』に対する造詣まったく深くないので、解釈も何もないんですが)。こういった下品さを感じさせるシーンで、かなり「うーん……」ポイントが上がってしまいましたね。そこはちょっと残念だった。とにかく――どうしても『シン・ゴジラ』との比較になるのですが――、『シン・ゴジラ』にはなかった嫌な下品さがあって、そこは少し肌にあわなかったですね。「うーん……」という感想の大きな構成要素のひとつでした。

そして、一番気になってしまったのはVFXのクオリティです。2021年の公開予定を1年延期した本作『シン・ウルトラマン』。2021年初めに公開された特報では少し質感にCGっぽさを感じたVFXのクオリティがどれほど進化しているのかは大いに期待していました。実際、クオリティは日本トップクラスだったと思うから、ポストプロダクションはめちゃめちゃ頑張っていたんだと思う、けど、でも個人的には……うーん……っていう感じだった! もちろんすごくいい映像もあったんだけど、やはり「CGだ……!」と思ってしまうカットはかなり多く、少し萎えてしまいましたね。意図的にそういうすこしチープ(失礼か)な表現をしていたという面もあるにはあるのだろうとは思うのですが、『デザインワークス』掲載の手記には「正直、アニメーションからやり直したい様な自分としてはかなり厳しいクオリティのまま公開されてしまうカットもあると思います」という庵野氏の言葉もありましたし、クオリティに関しては、不本意だった部分も大いにあったのでしょうね。こちらに関しては、これからの進化に期待するところですね。

 

さて。

以上、かなりネガティブな内容を打ち込んできましたが、もちろんいいところもたくさんありました。禍威獣や外星人による蹂躙シーン、戦闘シーンはやはり楽しいですし、ウルトラマンのいい意味での異物感は十分に表現されていたと思うし、巨大化メカニズムを安全保障に使用するというアイデアとそこから生まれる問題を作品のテーマに据えたところはとても新鮮で面白かったです。明らかに『シン・ゴジラ』を意識したキャスティングだな……と感じるキャラの登場もうれしかったし、鷺巣詩郎氏の音楽もすごくよかった。そして何より、『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァンゲリオン』でも描かれていた、「圧倒的な絶望のさなかでも、人間が自分たちの力でそれを乗り越えるんだ」という、現代を生きる人間にとっての希望を見ることができたのが本当によかった。目に見える“絶望”に対抗しようと、あがきながら前を向く人間の姿には、やはり心動かされるものです。

ただ……! それでもやっぱり「うーん……」ポイントは多くて、最終的には『シン・ゴジラ』のほうが好きだな、ちょっと肩透かしだったな、みたいな感想を抱いた5月13日の初回でした。あくまで、初回の感想です。

 


 

《2回目の感想》

 

「ひとつだけ教えて。あなたは1度しか観ないの? それとも2度観るの?」

 ちょっと肩透かしを食らった初回は、池袋のIMAXシアターで鑑賞しました。ただ、映画というのは上映方式が変わるだけで実質別の作品になるものです。ということで、もともと極上爆音上映が大好きな私は、音響の良い映画館で2回目の鑑賞をすることにしました。初回から1週間後の5月21日、立川でのお話です。

結果……意外にも、めっちゃ感動しました(な、泣いてねーし!!)。

もちろん、リアリティラインの低さは感じるし、下品なシーンは下品だなーと思うし、VFXもまだまだこれからだなーと思いはしました。でも、それはそれとして、『シン・ウルトラQ』パートは素晴らしいし、爆音で聞くネロンガの蹂躙シーンには畏怖すら覚えたし、ああ自分はスペシウム光線好きなんだなって思ったし、何より、初回でよくわからなかった部分が「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちる部分もあって、あの、端的に言うと、再三ですが、めっちゃよかったです。本当に泣きそうになったパートもありました(泣いてないけど)。特に、初回もいいなあと思った、滝くんを中心に世界中の人間が結集して天体ゼットンを破壊するための作戦を立案しよう、と浅見と田村が進言するシーン。あそこは本当に刺さった。あのシーンに至るまでのウルトラマン=神永の行動にも畏敬の念を抱かずにはいられません。彼は純粋な知的好奇心で人類と接触したのだろうけど、そんな人類に協力をして、身を挺して問題解決のヒントまでくれるわけです。そんなウルトラマンの姿を見ると、彼を失望させてはいけない、我々人類もあんな誠実さを目指していかなくては……と、襟を正すような気持ちになるし、ウルトラマンの想像を絶する広さの器に圧倒され、心が動くんですよね。あとはメフィラスと神永の会話シーンで流れる音楽を聴いて切なくなったり。初回鑑賞時は残念さすら感じた作品で、まさかこのような感想を抱こうとは夢にも思いませんでした。きっと、内容をより深く理解する余裕も生まれたのでしょうね。2回目、観ることができて本当によかったです。

 

ということで、『シン・ウルトラマン』のお話でした。簡単に1、2度観た感想を記しましたが、正直まっっっったく書き足りません。そもそも4DX版含めて4回観ているわけですし、例の「庵野秀明セレクション」もなんだかんだで観に行ったので、それを込みでの感想は全く書けていないわけです。

ですので、以降は全編の各所について箇条書き形式で感想を記していきます。たぶん本記事のメインコンテンツであるかというくらいの文量になると思います(まだ書いてないので予想がつきません)。だらだらやるので、時間のある人だけ読んでくださいね。よろしくお付き合いください(遠藤真理)。

 


《だらだらパート》

■『シン・ゴジラ』との連続性についての話。『シン・ウルトラマン』公開前、いくつかのサイトや動画で「ゴジラ以降、巨大不明生物の出現が増加した世界で、突如出現した銀色の巨人とそれを取り巻く人々を描く物語なのではないか」という予想がいくつかありました。「初代『ウルトラマン』の頃の児童誌には芹沢博士との関係を匂わせる、ある種のイースターエッグ的な記述があった」というツイートも見かけたこともあって、自分もそれを支持していました。『シン・ウルトラマン』予告編には『シン・ゴジラ』で里見臨時内閣の片山外務大臣を演じた嶋田久作が政府要人として出てきていたし、『シン・ウルトラマン』公開日に同時にリリースされた『シン・仮面ライダー』予告にも『シン・ゴジラ』で間教授を演じた塚本晋也が出てきていました。間教授は生物学者だったから、SHOCKERショッカーのオーグメンテーションに絡んでいたら面白いですよね。とにかく、3作品は繋がっているんじゃないか、と正直かなり期待していました。「複数の関係なさそうな物語をいかに美しくつなげてくれるのか?」という挑戦を見たいタイプの人間なので、そこはけっこう楽しみでした。ただ、違いましたね……。『シン・ウルトラマン』をご覧になった方ならわかると思うけど、『シン・ウルトラマン』の冒頭は、『シン・ゴジラ』のロゴから始まります。もともと『ウルトラマン』自体本当に何も知らないで生きてきたので、どのように始まるのかも予想すらつかないまま臨んだのですが、断片的に知っていた「マーブリングされた絵の具が回転する何らかのオープニング」から始まりました。あのオールドスタイルなオープニングが立体的に再現されていてちょっと笑って、そこに現れた『シン・ゴジラ』の文字でもちょっと笑いました。えっ……「シン・ゴジラ」……? ??? なんで??? と、思っていたところ、飛び出してきたのは「シン・ウルトラマン」の文字。なるほど、『シン・ゴジラ』からの『シン・ウルトラマン』といいたいわけですね。これは連続性が期待できそう! と思ったのですが……。冒頭も冒頭。「巨大不明生物出現!」というマティスEBのテロップとともに現れた、『ウルトラQ』パート初の巨大不明生物第1号、ゴメス。「巨大不明生物」は『シン・ゴジラ』でゴジラを指す言葉として、作中の霞が関で使われていた用語ですね。そして、このゴメスという個体は明らかに『シン・ゴジラ』で使用されたゴジラの3Dモデルを流用した禍威獣。カメラワーク含め、鎌倉上陸時のゴジラ第4形態を意図的に意識しています。元ネタ知らないけどきっと元ネタでもゴジラの着ぐるみを流用しているんだろうな……と思いながら観ていました(※実際元ネタでもそうだったらしい)。また、巨大不明生物第2号マンモスフラワー。こちらは『シン・ゴジラ』でゴジラが凍結された東京駅に出現していました。この花は、同駅前で火炎放射と炭酸ガスを用いて凍結されましたね。さて……この時点で既に、「察してください」と言わんばかりです。ゴジラではない、ゴジラのような禍威獣が現れ、さらにゴジラが凍結された場所で、巨大な花が枯死している世界。ここからわかることは、「この『シン・ウルトラマン』世界は『シン・ゴジラ』とは似ているけれども確実に非なる世界なのだ」ということです。つまり、先に申し上げた「2作品間の連続性」という話でいえば、それはほぼ無いのだ、ということですね。そもそも『シン・ゴジラ』で丸子橋の下敷きになって殉職した中隊長を演じた斎藤工が全然違う名前でウルトラマンの男を演じるという時点で気付くべきでしたね。あとあと友人の話を聞くと、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』が「連続性ありそうで明確なつながりはないです!」という関係の作品らしく、冒頭の「『シン・ゴジラ』→『シン・ウルトラマン』」というオープニングも、そういう関係性を意味していたようです。この「連続性のなさ」が肩透かしポイントのひとつでした。勝手に期待して勝手に失望しただけなんだけどね……。なお、2作品の連続性については、この先もお話しすることになります。また後ほど。

 

■話変わりまして。先に少し紹介した本作のアバン、いわゆる『シン・ウルトラQ』パートの話なんですが、ここは個人的に大好きだったシークエンスのひとつです。少し前に冒頭1分17秒としてその部分がYouTubeにアップロードされ話題となりましたが、あれは本当に最高の導入ですね。『ウルトラQ』ほぼ知らないけど最高です。『シン・ウルトラマン』世界がどういうものであるかがひと目で分かる点もいいんですが、なにより禍威獣の映像が素晴らしい。体表の質感やモーションも非常にリアルに感じたし、なにより実在する景色を非実在的な巨大生物が蹂躙していく描写が非常に素晴らしかった。現実と非現実の境目がわからなくなる描写こそ現代SF映画の醍醐味だと思っていますが、そういうまさしくあれは現代SFですね。また、6体の禍威獣が『シン・ゴジラ』のダイジェストのようになっていた点もよかった。諸々含め、あのシークエンスは非常に素晴らしいと思いました。もっともっと日本中を破壊してほしい。余談ですが、もしかすると『シン・ウルトラQ』パートに登場していた自衛隊の車両も、『シン・ゴジラ』の時に制作された3Dモデルだったのかもしれませんね。『シン・ゴジラ』の際に作られた10式戦車をはじめとする3Dモデルは、「ほかの作品にも流用できること」を目指して精巧に作られたものでした。ですので、流用だとすれば本当に正当な流れといえます。

ペギラの弱点を発見した女性生物学者は船縁さんであるという声も大きいですが、私は違うと思います。その女性は市川実日子さんの姿をしているはずだと、私は信じています。

■本作のリアリティラインの話① 前述のとおり、本作は「防災庁」という架空の省庁に「禍特対」という架空の組織が設置され、たった5人の禍威獣退治の専門家が、日本の今後を左右する世界です。確かに、禍威獣被害が多発している状況であれば、それ専門の省庁や部署が生まれることは理解できる。また、禍特対の人数についても、初代『ウルトラマン』をなぞるための人数合わせだったのだということもわかる。でも、現代日本で起きている話ということを考えると、たった5人によって巨大生物駆除の際の方針決定が行われるというのは、4回観た今でも、少し無理があるように思います。

■よかったポイントのひとつとしては、やはり対ネロンガ戦が挙がります。対ネロンガ戦というか、ネロンガが変電施設から電気を吸い取る周辺のあの攻撃/避難/破壊の描写。まず、ネロンガ自身の質感がすばらしい。目のあたりは少し可愛げがあるというかアニメ的というか、ゴジラ(2016)と比べるとどこかコミカルではあるんだけど、もう本当にハリウッド映画に匹敵する質感だと思ったんです。作中ではネロンガがかなりアップになるシーンが多いんですけど、クローズアップでも本当に見劣りしない質感だったと思う。ハリウッド映画が好むような生物的モンスターのデザインでは当然ないし、どこか樹脂的な質感ではあるけど、こと「怪獣」というくくりでいえば、すごく怪獣然としたデザインというか、ぎりぎり実在していそうな、でもどこか非自然的という、アーティファクト的な雰囲気を持っていたのが本っっっっっっっ当によかったです。ネロンガにはどこか妖怪的な、日本神話的なイメージがありますよね。口元もなんとなくおどろおどろしくて、獅子舞の獅子のような印象だった。すごく、いい意味で日本的だと思いました、本当に素晴らしかったです。いままでウルトラ怪獣にはほとんど触れてこなかったので、何に対しても特に思い入れはなかったんですが、これからは「好きな怪獣とかいる?」と聞かれても、答えに窮することはなくなりました。『シン・ウルトラマン』のネロンガです。CCPの1/6フィギュアが欲しいです。だれか買ってください。送料は元払いでお願いします。

ネロンガに攻撃を行う特科大隊のカットは、タバ作戦で御殿場から遠距離攻撃を行った特科大隊の映像の流用でしたね。ただ、背景だけは『シン・ゴジラ』とは異なるようなので、御殿場の富士駐屯地からの攻撃かはわかりません。なんとなくですが山梨側の富士の裾野な気がします(勘です)。いずれにせよ、どこからの攻撃であったとしても、御殿場~武蔵小杉よりも距離は短そうですよね。ところで、この「背景が違う」部分がすごく気になります。当然『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』のどちらかは実景で、どちらかは合成なんだと思うんだけど……両方ともあまりに自然なので見分けがつきません。VFXってすごい。順番的にやはり『シン・ウルトラマン』が合成なのかな。

■銀色の巨人が膠着し、ネロンガに光線を浴びせるシーン。ウルトラマンのCG感は少しありましたが、とはいえ、ここの場面も非常によかったです。まずそもそも、「光線」っていう物自体すごく好きです。ロマンです。そもそも「光」が好きですね。本作の光線は、初代『ウルトラマン』でスペシウム光線のアニメーションを描いていた飯塚定雄さんが描いているらしいです。へぇーそうなんだ。古いものを現代に通用する形で見せ方を変えるというのはすごくいいですよね。シネマスコープ画角だと作画量も多くなりそうで大変です。また、この光線発射シーンのモーションアクター庵野秀明氏であったことが、先日の公式ツイートで明かされましたね。

もう……ほんとバカじゃないの(褒め言葉)って思います。本番にあたって明らかに体を鍛えたであろう庵野氏も可愛げがありました。

■ところで、予告編にもあった「光線が山を破壊する描写」が私はすごく好きなんです。ミニチュアワークには絶対に出せない迫力とリアリティがあってよかった。やはり破壊描写はいいですね。全部粉々にぶっ壊してほしい。地方の山もいいけど、東京も同じかそれ以上に壊してほしい。えらそうにそびえたつスカイスクレイパーズを禍威獣退治の名目で全部徹底的に焼き切ってほしい。特に東京メトロ有楽町線沿いですね。破壊するべきです。すべてを粉々にしてなにもなかったことにほしいです。更地にしてほしい。もうほんと、好きなだけぶっ壊してほしいです。限りなくすべてを、徹底して焼き尽くしてほしい。禍威獣退治の名のもとに。

■このウルトラマン初登場シーンですが、特報や予告編では赤いラインのきれいな“顔”のウルトラマンが光線を放っていましたよね。でも、本編では全身銀で、かつ顔もちょっとゆがんだ感じのデザインの巨人でした。やっていたことは同じだったけど、でも肝心のキャラのルックが全然違う……やりやがりました。要はフェイク予告編です。やってることはマーベルと一緒です。そんな巨人は銀色のまま地上に来て、銀色のまま帰っていきます。単色の雛型を制作した際、「銀色もかっこいいよね」という話題になったため初登場時のカラーリングに銀色が採用された、という経緯を公式の何かで読んだ記憶があるのですが(ソース忘れた)、「白黒テレビのオマージュ」という考察を見たときはそれめっちゃありそうだな、と思いました。確かにあの辺は画面全体の彩度が低いんですよね。また、あのゆがんだ顔も初代『ウルトラマン』初期の「Aタイプ」に近づけているんだって。へぇーそうなんだ。ただ、個人的にはやはり赤ラインのウルトラマンが好きだし、顔ももう少し笑っててほしかったかも。でも巨人の強大さを知らしめるためには重要なシーンでした。ところで、あの光線を放つ最初のシーンの大仰な腕の動かし方には、何か由来があるのでしょうか。何も知らないで生きているので何もわかりませんでした。あと話変わるけど、現場の人間からしたら地獄のようなシチュエーションですよね。よくわからないでかい電気吸うやつが暴れまわってる最中によくわからない巨人が物理法則を無視して上空からやってくる。未知×未知=もう終わりなんですよ。青チャートにも公式が載ってました。自分はマルチタスクが苦手なので、この現場にいたら頭がキューとなっておかしくなって死ぬだろうなあと思います。

■翌朝。浅見弘子が歩いていく背中を追いかける一連のシークエンスで周囲から聞こえてくる市井の人々の会話が興味深かったです。「地方に1匹出ただけで騒ぎすぎなんだよ」はメンタル強すぎると思う。多分禍威獣が出たのは隣の県だよ。

■浅見弘子の登場シーンでは、鷺巣氏の『Early Morning from Tokyo』がアレンジされて使われていましたね。ここもよかったです。災害からひと段落した後の東京はこうでないとね。サントラを見ると『Early Morning from London』という曲名でした。なんと他国! あと、近いシーンの音楽でいえば浅見弘子と神永が絡むシーンで流れていた『Break down the Buddy』も、すごく懐かしい雰囲気があってよかった。懐かしいというのは、『:破』の日常パートっぽかった、ということです。でも『Break down~』は『:破』の未使用楽曲の流用ではなく、本作のための書き下ろしなのだそうです。ああいう音楽だけが似合う穏やかな『エヴァンゲリオン』も観てみたいですね。

■ちょっと話ずれるけど、『Early Morning from Tokyo』はそれこそ『:破』の日常パートのための未使用楽曲だったらしい! 知らなかった! その代わりに『:破』本編で使用されたのが、『2EM09_YAMASHITA』という曲。この『YAMASHITA』という楽曲は、映画『太陽を盗んだ男』からの引用なのだそうです。この『YAMASHITA』はストリングスが本当に美しいんですよね。第三新東京市、ひいては『ヱヴァンゲリヲン』の朝の風景に全くぴったりであり、ゆえに『:破』でもトップクラスに好きな曲であり、ゆえに流用と知った時に受けた衝撃は相当なものでした。いやー……今までずっとエヴァのために作られた曲だと思ってた。何も知らずに生きています。

ガボラ登場時の市井の「崩れてるぞ! 崩れてるぞ!」。好き。ちなみに、あのシーンの市境標識に書いてあった「黒松市」は架空の市町村のようです。

■リアリティラインの話② 「黒松市」の話にも通じる話。本作の「あらゆるロケーションが明確には言及されないし、言及されても多くは架空の地名」「登場するロケーションの抽象度が高すぎる」という点が、『シン・ゴジラ』と比較したときの相対的なリアリティの低さに繋がっていて、そこが自分には刺さらなかった、というお話も先ほどしました。『シン・ゴジラ』では、場所が移るたびに逐一本明朝EⅡで画面の場所がどこなのかを説明してくれていましたね。あの演出にどういった意図があったのかはわからないですが、実際にテロップがあることによって、観客は「現実にゴジラが現れている」ということを意識せざるを得なくなる効果を持つのではないかと思うんです。たとえば、ゴジラ放射線流で街を焼き尽くすシークエンス。ビルが焼き切られていくカットごとに「浜松町」「板橋」「銀座」などと書かれると、自分の中の「浜松町」「板橋」「銀座」に関する知識や記憶と結びつきます。すると、「ゴジラによって破壊される描写」がより観客の中でリアリティを持ちはじめるわけです……。意図的かどうかはともかく、あのテロップにはそういう効果があったように思う。他方、『シン・ウルトラマン』に登場するロケーションは、「どこかの地方」「どこかのビル街」「どこかの工業地帯」といった場所ばかりで、何県何市、という風に明示された場所はありませんでした(前述のとおり、言及された場所もあっても架空の地名だった)。個人的には、この「場所を明確にしない」という方針は、昭和時代のウルトラマンが戦っていた、現実の風景を抽象化したミニチュアステージを意識してのことだったのではないかと思うのです。意図的に、現実の地名は言及しないことにしているのだと思うわけですね。ただ、その「地名を明確にしない」「出てくる地名は架空のもの」という方向性が、自分には致命的に合わなかった、ということです。

ガボラを倒すために米軍がB-2でMOP-IIを投下するところは、素直に嬉しかったです。あのB-2の3Dモデルは『シン・ゴジラ』のものをブラッシュアップして再利用していると思うんですが、なにより特筆すべきは「MOP-II」の存在。「MOP-II」は『シン・ゴジラ』で登場したオリジナル兵器なんですよね。こういった部分は、微かではあれど連続性を感じられて嬉しくなります。米軍からの請求書を禍特対ではなく防衛庁に回すように指示する宗像室長もよかった。ちょっと数秒長いなとは思ったけど。

■ベーターカプセルのデザインかっこいい。アルミ削り出しっぽい質感のものは何でもほめたくなる。

■先ほどVFXが微妙だった話をしましたが、それを大きく感じたのは対ガボラ戦でした。そもそもガボラという禍威獣は体の構造が非生物的なんですよね。頭部には開閉するドリル状の掘削器官が、また背面部には回転するアルキメデススクリューがあり、生物感はすこし薄いんです。そして、そのあたりの駆動時の質感がCGぽかったように思います。あとはドリル部を展開した時の、人間でいう粘膜の部分にあたる赤みを帯びた部分も、なんとなくコンピューターでジェネレートされた感があったように思う。やはり「CG感」は否めず、どうしてもリアリティに欠けてしまうように感じました。

ガボラを持ち上げ、振り回し、持ち上げて上空に運んでいくウルトラマンのCGにも、ちょっと違和感を覚えました。そもそも、なんかすごい回転をしてその勢いでガボラを蹴り上げるという物理法則完全無視ムーブも解釈違いだったんですが、……それについては後に触れる「スペシウム133」で説明できるんですけど、それはともかく、なんだかちょっと軽すぎじゃない? と思ってしまったのは事実。「あんなに華奢な人があの巨体を!?」という感想は、正直抱いてしまいましたね。これもきっと、意図的なんでしょうけど……

■あと、エネルギー消費を示す体色変化の設定はあまり好きじゃなかったな。カラータイマーがないということはエネルギー消費が視覚的に分かる設定もないのだろう、と思っていたので。そもそも、かの成田デザインを基にするなら赤と白で固定すべきではなかったのかと思うし、活動限界があるのならカラータイマーありでいいと思ったのですが……ウルトラマンに明るくないのでよくわかりません。

■ちなみに4DX版のガボラ戦は面白いです。足元に“土”を感じるウルトラマンの気分を味わえるほか、まさかの“山”の気分も楽しめます。「ああ、私って“山”だったんだ……」と思う瞬間が確かにありました。

■リアリティラインの話④ あとはもう細部の話になるけど、「YouTube風」「TikTok風」「Twitter風」の各種SNSのUIやWindows風OSのディスプレイ等に用いられていた、フォントやロゴ、アイコン、SEなどの、“偽物感”はとても気になってしまった。『シン・ゴジラ』の時は正確なロゴやフォントだったのに、どうして……と思うところではあった。これも意図的なんだろうけど。思えば、後述のにせウルトラマンを捉えるカメラのディスプレイのフォントもなんか嘘っぽかったな……

 

■さて、外星人ザラブのお話です。予告編を見たときから楽しみにしていたキャラクターの一人が、このザラブでした。楽しみにしていた理由はとにかくCGの質感ゆえです! アルミ削り出しみたいな光沢、にもかかわらずスムーズに動く星形の口。そもそも神永融合前のウルトラマンもそうだけど、いまの時代なかなか金属感一色で構成されたSFキャラクターって出てこないですよね。普通に60年代っぽくて、でもそれが一周回って新鮮でいい。本編でもその質感の良さは維持されていたままだったので、非常によかったです。もちろん、あっ CGだ と思えるカットもある(モーションとか)し、本作のザラブ、体の半分が透明化しているので完全にCGだということはわかるんですけど、でも正面の姿とかは本当に判断つかないくらいのクオリティだと思う。特に総理と握手するカットなど、実写の人々と一緒に映るカットでも遜色ない質感でした。もしかしたらあの辺だけは造形物があったのかな? とも思うんですが、『デザインワークス』には「ザラブの頭部は金属塗装を施した実寸大の造形物が製作されたものの、最終的にはカットされている」という記述が。つまり、目に見えているあのザラブは基本すべてCGということのようです。すごい! では、ザラブに関する目下の疑問は、翻訳アプリがインストールされたスマホを持つ手はCGなのか造形物なのかという部分だけですね。一応造形物はあるようですが、それは使われたのか、否か? いずれ明かされる日は来るのでしょうか。それとも来ないのでしょうか。

■外星人ザラブ来訪時、電磁パルスによってデータを消されてしまった船縁由美のセリフに「ピー音」が入ったところ。あれは必要なかったのではないか……と個人的には思います。というのも、あそこにピー音が入るということは、少なくともピー音を入れようと意図した人がいる……ということになるわけです。すると、否応にも「作品をユーモラスな形に編集したい側」の存在を感じてしまうんですよね。まあ、もちろんユーモアのあるシーンだし、実際公開初日に劇場で笑いが起きていたシーンではあるんだけど、そのユーモアの描き方が、自分の肌には合わなかったな、と思うのです。

■神永の元同僚、あの人何者!? 絶対に「神永=ウルトラマン」って知ってるでしょ。

■ところで、車内でシフトレバーを握る神永の手に自分の手を重ねるザラブは初代『ウルトラマン』のオマージュなんですね。あそこびっくりするよね。

■スペシウム133。これによってウルトラマンは構成されていて、これで重力をゆがめて飛び、これで大回転し、光線も放つ、ということをザラブが言っていましたね。この説明によって、一応、あの物理法則ガン無視ムーブも説明はつく。つくんだけど……! ただ、それが鑑賞の際にどういった効果を持っていたのかと言われれば……やはりノイズになってしまっていたように思うんですよね。

■リアリティラインの話③ 登場人物の会話もリアリティという点では気になった部分です。確かに早口で進んでいく『シン・ゴジラ』調の会話テンポではあるんだけど、どこか過剰にコメディチックだったり、また、女性キャラクターによって女性語が多用されていたり、電話を受けた人物が「なに、基地を破壊してる!?」という風な反応をしたりと、これも意図的なんだろうけど(素人よりもはるかに「会話」と向き合ってきたであろうクリエイターが気付かないわけがないので)、そういった部分の創作っぽさが個人的には好きではなかった。

■にせウルトラマンの破壊活動を止めるべく、ほんものウルトラマンが対抗するシーン。『シン・ゴジラ』の「やはり、対戦ヘリしかないな。木更津の状況を確認しておけ」でおなじみ、石倉幕僚長を演じた俳優さん(名前わからない)もここで出てきたので正直ビックリしました。『シン・ウルトラマン』における名前は「アサムラ」さんでしたね。ちなみに地団太を踏むにせウルトラマンモーションアクター庵野氏だと思います。勘です。

■対ザラブ戦ですが、「上空に飛ばされる浅見弘子」の表現に悪い意味での古くささを感じつつも、概ね楽しんで鑑賞できました。かなりよかったです。にせウルトラマンも、特に釣り目とかではなく「微妙に目の形を変える」という形で差別化を図ってきたのはよかったですね。明らかに偽物ってわかるもんね。でも、個人的に「にせウルトラマンの硬い部分にチョップが当たって痛がるウルトラマン」をそのままオマージュするとは思わなかったですね……。もちろん、庵野氏のお気に入りシーンであることは知っているんですが、そのうえで、オマージュするとは思わなかったんです。というのも、初代『ウルトラマン』のあの場面は、台本にないまったくの偶然だからこそよかったわけじゃないですか。庵野氏もその「偶然の産物」感を含めて、あのシーンが好きなのだと思っていたんです。その偶然生まれた部分を意図的に再現をするのは、なんというか、本質を欠いているように思うんですよね。もっとも、『シン・ウルトラマン』のあの場面はすごく精巧で、あまり台本感はなかったというか、当時の映像からモーションだけを抜き出したかのような格闘だったので、そのあたりの違和感もほとんどないんですけどね。『シン・』でも何らかの破片が飛び散っていましたが、あれは一体何の破片なんでしょうか。ちなみに、最初ににせウルトラマンを蹴り飛ばすウルトラマンモーションアクター庵野氏だと思います。これも勘です。……と書いていたら、公式が答え合わせをしていましたね。

庵野氏でした!

■個人的にすごく好きだったのは、こう……ウルトラマンが飛んでいくザラブを追うさなか、ザラブからの攻撃をうけて一時的に地面すれすれに低空飛行するところです。ああいう「現実世界に非現実の存在が現れる」みたいなカットは本当に大好きです。あとはウルトラマン登場時に流れる『遊星から来た兄弟 勝利(M5)』(ダンドンダンドンダンドンダンドンダンドンダンドン……テッテレー↑テッテレー↓テッテレー↑テッテレー↓ぱーぱぱぱぱっぱっぱっ ぱーぱぱっぱっぱっ、のやつ)からの『侵略者を撃て 空中戦(A2)』の流れもすごくかっこよかった! 両者とも「あー、聞いたことあるわこれ!」となれたのがうれしかったです。あれはかっこいいですね。前者は後半、エレキギターのパートがあるんだけど、そこも今風でよかったし、後者も疾走感が良かった。あのイントロの「ツッチーツッチーツッチーツッチー」という楽器は何というのでしょうか。誰か教えてください。

■八つ裂き光輪?でスパッと片づけてしまうのはあっさりしすぎかな……とも思ったのですが、とはいえお気に入りのシーンです。ちなみにザラブを光輪で切断する際、4DXではザラブの体液を浴びることになります。なんか飛んできてました。

■そういえば。先ほど話題に少しだけ出した、嶋田久作演じる総理大臣ですが、意外とあっさりと滝くんの口から「大隈」という名前が出ていましたね。「片山」ではなかったです。ちょっと残念。同じキャストをあえて使いつつ、違う世界であることをじわじわと感じさせてくる作りでしたね。

■記事の初めのほうで、「下品と捉えることのできるシーンがあり……」、というお話をしました。実際、そういうシーンは多かった……というより、多くはないけど濃かったように思われ、そこはやはりすごく嫌、というか、悪趣味だと思ってしまいましたね。具体例を出すとすれば、やはり「巨大長澤まさみ」として知られる、外星人メフィラスによるベーターシステムを用いた人間巨大化デモンストレーションのシーン。あの一連のシーンですが、その是非は置いておいても、意図的にセクシャルに見えるように撮影しているという風に感じました。前提として、巨大化した浅見弘子をあおりで撮影する観衆がいるということは、もちろん、いろんな意味で自然ではあると思うのです。いろんな意味で、というのは……たとえば、そもそもあの巨大な女性の姿をわれわれ一般人の視点から撮ろうと思えば、あおりで撮る以外にない、ということがひとつ。また、性的な意図をもってスカートの中を撮影しようと試みる人間はどうしても出てくるだろう、ということがひとつです。そして、倫理的な問題はさておき、それをSNSに上げる人も一定数いる。そういう意味では、「下劣さ」という形で顕れる野性の残滓を見せるほうが、現代というリアリティを描く上ではむしろよいものだと思います。撮った動画が検閲なしにすぐSNSに上げられる、というのも非常にリアリティのある現代描写ですしね。でも、とはいえ。『シン・ウルトラマン』という映画を撮るためのカメラが、フェティッシュなアングルで撮影を行う必要はなかった、と思うんですよね。すごく難しい線引きだと自分でも思うんだけど、「巨大化した女性を性的に見る下劣な市民を描くのはいいけど、性的に見ることそのものをこの作品のカメラアングルを通して肯定してほしくはなかった」というか。ここの描写については、「メフィラスがその行為(ローアングル撮影およびその動画・画像をアップロードする人間たちの所業)を批判し、全責任を持って全デジタルデータを消し去ったから問題ない、その問題は作品を通して批判されている」「データが消えたことで浅見弘子が喜んでるしOK」という考え方も当然あるでしょうが、あれはあくまでメフィラスの価値観から生まれた行為であって、映画自体の倫理観を描いていたわけではないと思うので、作り手側としても、「作中世界にはこういう奴もいるけど、あくまで作品自体のスタンスとしては上品なものです」という在り方であってほしかった、そんな風に思います。

■外星人メフィラス。山本耕史が人間の姿を演じているわけですが、その演技の評価がすごく高いですね……私も好きな演技です! ウルトラマンとザラブの存在を上手く活用して、生物兵器としてのポテンシャルを持つ地球人類を実質的に手中におさめようとする、まさに策士でした。完璧に人間に擬態するがゆえに、あまりに完璧で、逆に人間らしさの薄いキャラクター、という非常に難しいキャラクターだと思うんですが、まさに好演でした。

■メフィラスが明かしたベーターシステムと人間の関係も面白かった。人口70億を超えるすべての人間に、巨大化し生物兵器となれるポテンシャルがある……という視点は新鮮でしたね。そんなこと今まで全く考えたことがなかったし、すごくシュールな絵面な気がするけど、きっとめちゃくちゃ効果的なんだろうな。でもベーターボックスのCGの質感はさすがにどうにかならん? あれ実寸大のプロップを作ったほうがよかったのでは……それとも撮影時にはデザインが決まってなかったとか、そういうことなのかな。

■ところで、いまだにメフィラスの言う「マルチバース」の用法がわかりません。全宇宙、じゃなくてマルチバースなんだよね。いわゆるマーベル的な感じの解釈でいいのかな。ちょっとピンとこないんですよね。『キャプテン・アメリカ/ウィンターソルジャー』が好きだという庵野氏が「マルチバース」の用法を間違えるとは思えないし。よくわからん、ですね。

■メフィラスといえば、公園での神永との会話中に流れる『Univers réels et irréels 〈現実と非現実〉』。鷺巣氏による楽曲ですが、これが本当に素晴らしいのです。ピアノと、それに絡み合うようなストリングスが美しくて、ひとことで言い表すとしたら……天国? そんな穏やさを持つ曲なのですが、これが流れる中、神永とメフィラスのふたりが何を話しているのかというと……人類がいずれ辿ることになるかもしれない絶望的な行く末について、なのです。いや、この表現ほんとうにすごいと思うんですよ。この場面で流れることによって、あの天国的な美しさを持つ曲が、本当は世界が終わるときの終末の音なんじゃないだろうかと、観る者に思わせるような効果があったと思います。このシーン、子供たちの姿を映すのも本当に残酷です。兵器として生まれてきたわけでは決してないのに、兵器になり得る幼い命の行く末を考えると……なんともせつなくなります。でも、絶望の終末世界でこの曲が流れてきたら、すごく幸せな中で滅びを迎えられるだろうとも思う。あれです。終末期のセデーションで使われるモルヒネのような、死の淵で分泌されるβエンドルフィンのような、そんな曲です。とにかく、あのシーンでこの曲を流すセンスは本当にすごいと思う。ここのシーンは初回から好きでしたが、2回目以降は輪をかけて好きです。サントラDisc 2に収録された『〈完全版〉』の方もよかったです。ぜひ聴いてみてね。……さて、河岸を変えよう。

■メフィラス「私も、この星が欲しい」 ウルトラマン「ふふっ……w」

■「割り勘でいいか? ウルトラマン」で劇場が笑ってました。私も笑いました。ちなみにあの居酒屋の大将は『仮面ライダーBlack Sun』で監督を務める白石和彌氏らしいです。ソースはインターネット。

■「下品」という話を先ほどもしたけど、ベーターボックス奪取のために、ベーターボックス内の数値化されない被験者情報=浅見弘子の匂いを辿るシーン、あそこもちょっと好きじゃなかった。私は初日に見に行ったんですが、「巨大長澤まさみ」のシーンで笑いが起きていた劇場でも、あの匂いを嗅ぐシーンはみんな無言だったのが印象的でした。あれ多分みんなドン引きしてたんだと思う。いくら斎藤工でもあれはちょっと、ですよね。やってもいいけど、やるならカメラのないところでやってください、と正直思った。メフィラスも「変態行為」って言ってたけど完全に同意。申し訳ないけど、私の苦手なシーンです。もし自分が編集担当だったらどうするかな、と考えたんですが、私だったら浅見弘子の「えっ……」で切って、次のカットは匂いを嗅がれて辟易しきった1分後の浅見の姿にすると思う。念のため代案、出しておきます(パブリック・ドメイン)。

■さて、政府の男・竹野内豊の登場です。どうしてこんなことするのよ……! どうせ『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』の世界に連続性はないんでしょ!? なのに……なのに……どうして……! その気がないなら、これ以上やさしくしないでよ……! もう、出てって……!!!とはいいつつも、純粋に嬉しかったです。いや、ほんとまさに青天の霹靂でした。まさか出演されるとは思ってもいなかった。だって『シン・ゴジラ』のメインキャストですよ。冗談で「矢口がちょこっと出てきそうw」とか思ってはいたけど、まさかのそっち! しかも、その役柄もゴジラ危機後の赤坂さんがやっていそうなところだったのがまたいいんですよね。ベーターボックス受領式で登場した時は「ん、あの横顔は竹野内豊か……? 竹野内豊なのか……? → 竹野内豊だー!!!」といったような、思わせぶりな焦らし焦らしなカメラワークではありましたが、それでもストレートに出てきていましたね。本当に驚きました。名前は赤坂なのか、青坂なのか、それとも黄色坂なのか……とパンフレットを読んだら、役名は「政府の男」でした。もう、本当にファンの心を弄ぶのが上手です。メフィラスに対して強気に出るところもよかったし、後述する宗像室長との会話もすごくよかった。竹野内豊が出ると空気感が変わりますよね。

■巨大化後のメフィラスとウルトラマンの戦い。やはり質感やモーションは両者ともに「CGっぽい」感じがしたので、そこは少し残念でした。質感もそうなんだけど、なんとなく、非常に体重が軽そうに見えてしまったのがけっこうマイナスかな。当然モーションキャプチャーはやっていると思うんですが、メフィラス共々なんとなく全体的に軽いというか、重みを感じない動きをしているのが気になりました。なんかふわふわしてた。ウルトラマンの体表の質感については、まだ少しCGぽさはあるとはいえかなり高いレベルだと思うので、そのあたりの重量感がもう少し欲しかったですね。あれがスペシウム133か……(諦観)。

■でも対メフィラス戦は音楽がすごくいい。まさか特報第1弾のBGMがこういった形で使われるとは思わなかったです。音ハメが気持ちよかったですね。そういえば、なんでメフィラスのエネルギー消費が少なくてウルトラマンのエネルギー消費が多いのかをメフィラスが説明してたけど、結局何言ってるかよくわかりませんでした。それまでに私の言うことが理解できるか? ウルトラマン

ウルトラマンの背後にいただけで「魔除け」という立ち位置を確立したゾーフィくん! ちなみに「よそう……」は東京03の角田さんが言ってるのしか見たことなかったです。

■宗像室長と「政府の男」の交渉シーンがすごく好きです。竹野内豊が好きなので、という理由でもあるんですが、宗像室長もすごくよかったです。ちょっと素っぽいのがいい。「邦画っぽさのあるセリフ」からすこし離れたところにある演技だったので、シンプルに好きでした。あの時の室長のセリフの雰囲気、なんとなく聞いたことあるけどなんだろう……と思ったんですけど、最近気づきました。ちょっと古畑任三郎の時の田村正和っぽいですね。既知感はそれでした。

■ゾーフィについて。最初のほうでも書きましたが、自分、そんなに『ウルトラマン』には明るくないわけです。なので、そもそもゾフィーの存在についてよく知らなかったんですよね。『初代』『セブン』以降、のちのちのウルトラ兄弟が増えてきた時代にその流れで出てきた『ウルトラマンゾフィー』みたいなシリーズの主人公で、One of ウルトラ戦士だと思っていました。そんな状態で本作を見たわけですが、今回出てきたゾーフィというキャラクターは、金色の地に黒?紺?のラインが入った光の星のまあまあ偉い人(CV.山寺宏一)という感じでしたね。初代ぜんぜん知らないけどこんな色のウルトラ戦士は記憶になかったので、まあなんか知らんけど草稿段階だと「ゾーフィ表記」かつ「金色に紺」だったんだろうな~とか思いながら観てました。ちょっと仏像っぽいよね。

■ところで、『シン・ウルトラマン』世界の宇宙に住む知的種族って、そもそも「群れ」でいることは珍しいんでしょうか? というのも、「人類すべてが生物兵器としてのポテンシャルを持つことがマルチバース全域の知的種族にばれちゃった」みたいなこと言ってたじゃないですか。神永と化したウルトラマンも「そうか。それが『群れ』か」と言って浅見に馬鹿にされてたし、スーツもコーヒーも自分以外の他者によって作られていることを理解できていなかったところを見るに、基本的に単独で生きているのかもしれません。何万年も生きているのだとしたら、世代交代も起こりづらそうだし、人口も少なそうですよね。「○○星人」がひとりしかいなさそうな理由付けにもなりそう。どこかに「光の星の生命体は一個体で完結してる」みたいなのが書いてあった気もする、忘れました。

■ぜんぜん話変わるけど神永と化したウルトラマンの体も服ごとスペシウム133でできてるんでしょうか。ということは、巨大化した浅見みたいな感じで、体表は一切削れない状態ということ……? と思ったけど……

■ちょっとびっくりしたのが、ゼットンの扱いですね。ゼットンについては、ゾーフィとは逆に「あの外見で恐竜」「最終回でウルトラマンを倒した怪獣」「手がかわいい」くらいの知識はありました。でも、本作のゼットンは恐竜じゃなくて「1兆度の火球を出す、形は似てるけどサイズが何倍もある天体制圧用最終兵器」という設定。そういえば1兆度の火の玉を吐くみたいなの聞いたことがある気がする。しかも今回はウルトラマンの同族であるゾーフィが持ってきたものです。「ウルトラマンと同じ種族の人が地球を滅ぼす」という展開には驚かされました。もう散々言われているけど「ゾーフィがゼットンを操る」というのは児童誌の設定、というか情報伝達ミス? なのだそうです。

■ゾーフィの言いたいこととしては、要は「地球人は全員生物兵器になり得るから、生物兵器になってない今のうちに星系ごと滅ぼそうぜ!」ということですよね。日本のはるか上空に展開するゼットンを東京タワー越しに見るカットを見たときに、なんとなく小説『三体』の智子低次元展開シーンを思い出しましたが、この「あいつら怖いし危ないから先にこっちから攻撃しとこうぜ!」という考えも、『三体II』で面壁者・羅輯が三体星人対策に利用した「黒暗森林理論」なんですよね。ほかの人の指摘で気づきましたけど、確かにそうですね。やはり宇宙ってそういう危険な場所なんだね……

■まあ勝てんやろ……と思いつつゼットンに立ち向かっていくウルトラマン。地球から宇宙空間に向かっていくカットは予告編の時から好きだったんですが、あれはゼットンに向かっていくカットだったんですね。肝心の第一次ゼットン戦は……やっぱりCGの質感が気になってしまいました。あとは絵面が代わり映えしないところも気になっちゃったな。でもウルトラマンを叩き落すための防衛用赤色レーザーは昔のアニメっぽくて逆に良かったと思う。

■あのスピードで生身で落下したらさすがの神永さんでも死ぬでしょ、と思ってたら生きていた。でもボコボコになって入院してましたね。治療が必要ということは、やはり体がスペシウム133で構成されているというわけではなさそうです。

ゼットンに絶望する政府と、その決断について。現時点で地球最強の存在であるウルトラマンをもってして、天体制圧用最終兵器ゼットンを倒すことはできないと悟った日本政府は、ゼットンという存在が1兆度の火球で地球を太陽系ごと滅却する準備を進めている事実を公表しないことを決定。世界の終焉を公表してパニックに陥らせるより、誰も何も知らないまま、日常を送る最中に唐突な終わりを迎えるのが最も幸せであろう、ということですね。それを知った宗像室長の皮肉な笑みが印象的でした。そして、市井の人々の日常を切り取るカットが挿入されていたパート。あれは初回で観た時からすごくいいと思いました。IMAXで観たから流石に「あっ ここiPhoneで撮ったな……」とかわかってしまったけど、でも、それでもよかった。前述のメフィラスと神永の会話の時と似たような印象を受けましたね。もしかしたら、いま我々が生きている世界にも、水面下で黙殺されている、なすすべもない脅威があるのかもしれませんね。日々を大切に生きよう。なかなか思い難いものですが。

■滝明久くん。滝くん今回すーごいよかったです(前回があるわけではないよ)。非粒子物理学者という……よくわからない研究をしている人なわけですが、科学の常識を超えた数々の事象に一度は絶望し、職場でストロングゼロをあおるものの、神永のUSBを見つけて以降は世界と連携して答えを見つけ出そうとします。そのまっすぐなオタク科学者らしさがなんともよかったですね。あんな風にまっすぐ向き合えるものがあるといいですよね。

■ただ……あの会議のシーンはもったいなかった。浅見と田村が宗像室長に進言した後で、世界中の研究者が動き出すシーンがあったり、また、Zoomで会議をするようなシーンがあったら本当に完ぺきだったと思います(Zoom隆盛は撮影終了の1年後だけどね)。いずれにせよ、もっと「世界中が連携してます」感があったらよかったなあと思う。『シン・ゴジラ』にも少ないながらあったしね。

■結局、ウルトラマンがベーターカプセルを2回点火してゼットンが火球を放つ瞬間の1ミリ秒でパンチをすればそこでなんかすごいエネルギーが生まれて(?)そこで生まれる重力井戸にゼットンが吸い込まれます(?)みたいな理屈で、ゼットンに対処することが決まりました。いまだにどういう理屈なのかはわかりませんが、エンドロールには取材協力として理化学研究所の名前が載っていたので、少なくともあの世界では科学的な説得力のある方法なのでしょうね。かくして、これで人類はゼットンを倒すことができるようになった……けど同時に、人類の手でベーターシステムを開発することができるようになってしまいました。

ゼットンを倒すにはウルトラマンの犠牲が必要、と知った田村班長がすぐに作戦の中止を命じるのけっこうすき。人間の鑑。

■タイムスタンプ演出はなんかあんまり好きじゃなかったですね……なんかフォントが安っぽい感じがしたし。でも音楽がとてもよかったですね。あのファンファーレが流れてきた時はてっきり宮内音楽かと思いましたが、予告編の音楽に繋がっていったので鷺巣氏の曲だと分かりました。『Is Humanity to die? 〈世界の終わり?〉』です。前半の勇ましさで盛り上がる中、「グングンカット」の真打登場! 感はすごくよかったですね。そういえばいままであのカットは見てなかったですね。スタジオカラーのサイトで公開されている『デザインワークス』の追加ページ(リンク貼る)には、そのシーンの3Dモデルが掲載されているのですが、ふーん、そんなことするんだ……と思いました。そんなウルトラマンはもう一度ベーターカプセルを点火し(一緒に巨大がするの!?)、くるくるしながら一撃をゼットンに食らわせる。その時に生まれた重力井戸に抗うウルトラマンの姿……

■重力井戸に抗うウルトラマン。どういう理屈で重力井戸が発生しているのかいまだによく分からないですが、とにかく、並行宇宙では昭和時代の造形物のようなウルトラマンが頑張って重力井戸から逃げようとします。個人的には、あれだけはいわゆる“特撮”で撮ってるんじゃないかと思っていますが、そういう話は今のところ聞かないので全然そんなことはないかもしれない。あの飛び方はそれこそ初代オマージュなのでしょうが、個人的にはちょっと古臭く感じましたね。また、あの平行宇宙の表現がシン・エヴァのマイナス宇宙に寄っていたことも少し気になりました。もしかしたらあそこだけ同じ世界なのかも? と思ったりもしたのですが、さすがに考えすぎかもしれないですね。Blu-ray化した時にコマ送りしたらゴルゴダ・オブジェクトが映ってたりして。

■気づいた時には赤い空間にたどり着いていたウルトラマン=リピアーと、それに呼びかけるゾーフィ。どうやらゾーフィはウルトラマンを救ったようです。また、「ゼットンを倒した人類ってすげーな!」「消滅させないでおこう!」と思ったそうです。よかった~。さらにゾーフィはウルトラマンを光の星へと帰すことに決めますが、ウルトラマンはよく分からないけど人間を好きになってしまったし、もっと知りたいので、神永の体を維持するためにも神永の体と共に地球に帰る選択をしました(そういう風に解釈しています)(正直よくわかってない)。そして最後には、ゾーフィが神永とウルトラマンの体を分離……

■ところで。これは完全な推測なんだけどゾーフィを演じたのは庵野監督だと思います、肩の感じがそんな気がする。

■禍特対メンバーに迎えられ、神永は目を覚ます。こうして『シン・ウルトラマン』は幕を下ろすわけですが、まだまだ問題は山積しています。地球に隠された生物兵器としての禍威獣はまだすべてが駆除されたわけではないですし、地球人類の兵器転用可能性に気付いた、また、それを恐れるマルチバース中の知的種族が地球を狙って現れてくるかもしれない。にもかかわらず、神永はウルトラマンの肉体を持たない。……でも、この感想を書いていて気づきました。ウルトラマンはベーターシステムの理論を既に人類に伝えているんですよね。であるならば、リピアーの肉体がないとしても、人類は人類の力だけでリピアーの肉体を、もしくはそれと同等のものを生み出せるはず。そうして、我々の知る『ウルトラマン』のように、禍威獣や外星人がやってくるたびに禍特対とウルトラ戦士が対処する、そんな世界がやってくるのではないかと思います。それが『デザインワークス』に載っている続編案(『続・シン・ウルトラマン』『シン・ウルトラセブン』)と同じアイデアなのかはわかりませんが……とにかく、シン・ウルトラシリーズを展開するために必要なものは、既に揃っているようです。もっとも、私の解釈が正しければ……ですが!

■エンドロールの声ノ出演欄に「高橋一生」の名前があったので、えっ、巨災対の安田さん出てた? どこに? と思いましたが、まさかのウルトラマンの声役でしたね。最後の会話シーンでウルトラマンを演じているのが高橋氏だったらしいんですけど、4回観ても斎藤工氏との声の違いが判らなかったので私の耳は終わりですね……。おい見てんだろゾフィー! 耳ふたつ、追加で持ってこい!

■主題歌は米津玄師氏の『M八七』でした。公開前の私は、エンドロールの音楽は『M八七』と『ウルトラマンのうた』の2本立てなんじゃないかなあと勝手に思っていました。初回鑑賞時、『M八七』で映画が終わったときは『ウルトラマンのうた』流さんのかい……と少し残念だったんですが、2回目以降はむしろ「『ウルトラマンのうた』はなくていい、米津玄師だけでいい」と思うようになりました。それはなぜなのかとも思ったのですが、それが歌詞ゆえなのか、メロディラインゆえなのか、曲全体が持つ物悲しさと力強さゆえなのか。結局、わからないということがわかりました(ゾーフィに「は???」って言われそう)。でもいい曲ですよね。2回目以降はちょっとうるっと来ました。でも泣いてられないですね。微かに笑え、あの星のように。

 


 

ということで、以上、現時点までに抱いた『シン・ウルトラマン』感想についての記事でした。総評としては「60点~70点を推移するくらいの評価なんだけど、なんだかとてもクセになる映画なのでリピートしちゃう」みたいな映画でした。何せ、ウルトラシリーズをほとんど知らないどころか敬遠していた人間がこんなに語りたくなる映画なわけですから。こんなに、すべてについて語りたくなる映画は類を見ないと思います。記事を執筆しているいま現在もまだまだ上映中なので、観てない人は観てみてね。

 

……と締めようと思いましたが、思うに、この記事を最後まで読んだ人は、少なくとも1度は観ている人だと思う。ということで、1度観た人は2度目を、2度観た人は3度目をぜひ観てみてね。あえて複数回鑑賞するからこそ、見えることもあると思います。