壁抜けバグ

カマドウマが我が家のトイレに出没してから3日が経っていた。

 

彼は3日前に私が掃除をすべくトイレのドアを開いた瞬間にぴょおんと跳ね上がりトイレの床を暴れ回っていた。

一部では不快害虫と揶揄されるこいつだが、所詮は丸いだけのバッタである。なんなら彼は彼自身の持ち前の脚力で壁に激突して死んでしまうことがあるくらいのドジっ子なのである。可愛いやつめ。

なんだかそんなことを考えていたら駆除するタイミングを見失い、そのまま放置して便器を掃除しその日を終えた。

 

問題は2日目から起きた。

彼は天井の角にまで到達していた。

次々と新しい人間が入っては出てを繰り返す謎の空間にすっかり怯え、上空の壁の角くらいしか自身の安寧を獲得できないと判断したのであろう。懸命ではあるが、このままでは一生をすみっこぐらししてしまう。

とりあえず窓を小さく開けておこうと開けてはみたものの、彼はもともと日陰を好む性質がある。当然出ていくそぶりを見せずじっとしている。なんなら便所バチが1匹訪ねてきてしまったので、急いで戸を閉めた。

便所コオロギと便所バチのルームシェア。なるほどお似合いの2人だと感心してしまうが、彼からしたら巨大な鼠取りにかかったようなもの。文字通り死活問題だ。

幸い便所バチには羽がある。彼は扉の開いたタイミングを見計らい、リビングから上手く脱出して行った。

一方の彼は便所バチに気をつける余裕などなく、ひたすらにじっとしている。なんだか震えているようにも見えた。

差し詰め青鬼のたけし。彼はただ怯えるのみだ。

余談だが青鬼はたけし以外のキャラの名前を忘れがち。

どうにか外に逃してやろう、なんて思うと同時にこのまま彼を放置したら一体どうなるのだろう?と気になってしまった。あしたまたいるようなら逃してやるかと思った。

 

そして3日目、現在に至る。

そんな壁際くんの顛末というと、

、、、なんかめり込んでない?

彼は自慢の脚力を生かしたのか、自身の体をよりコンパクトにまとめ、壁の角へと体をさらに寄せ、より壁へとはまっていた。まるで自分自身がもともとこの壁であったのだ、といわんばかりに後ろの発達した脚を折り畳みそこでじっとしているその姿。営業終了直後のはま寿司にて壁際で頭を垂れるペッパーくんのようだ。

しかし、やはりじっと眺めていて思うのは、これホントにめりこんでない?

いくら外骨格とはいえ、バッタやトンボなどを捕まえたことがある方ならわかると思うが、彼らは存外柔らかな体をしている。オノマトペで言ったら奴らは意外とプニプニなのだ。

そんな彼らであるから、自身を壁の隅の隅へとおいやることも造作もない…がこれもう頭壁の向こうにない?というくらいにめり込んでいるもんだから驚いてしまった。

そこで私は一つの仮説を思いついた。

彼らは怯えた結果、隅へと体を向けたのではないのではないか?と。

つまり、彼らはこの密室からの正当な脱出手段として、隅へと向かっているのではないかと。

マリオ64 、と言えばみんなも馴染み深いだろう。

お尻を振り回すことでエネルギーをチャージし、勢いに任せて髭面が縦横無尽に闇の世界を闊歩するホラーゲームである。

そう、文字通り奴は壁抜け「バグ」なのだ。

彼らは理を外れた手段を用いて本気で脱出を試みているのではないだろうか。そうでもなければ彼らが脱出や食糧を探すという基礎的な行為を一切しないことに説明がつかない。

しかし舞台は現実。ゲームと違ってこのハイクオリティな物理演算を前にそんなことが出来るはずが…と考えて、また更に思いついてしまった。

シミュレーション仮説をご存知だろうか。

簡潔な説明にはなるが、オックスフォード大学のニック=ボストロム曰く、現実世界そのものがコンピュータによるシミュレーションそのものなのではないか、という仮説である。

トンデモのように聞こえる仮説だが、我々には帰納法でしか証明手段がない時点で、まず帰納法という証明手段が合っているかの証明を帰納法でしか行えない。世界の真理(この世界がシミュレーションかどうか)には到底辿り着けないようになっているとこの仮説でボストロムは語っている。

我々は他の生物の声も心もわからない。そもそもそれらが存在するかどうかもわからない。しかし、わからないのならば、「カマドウマが壁抜けバグを知らない」と言い切ることもできない。

また、ゲームのキャラクターの一部が透けて中身が空洞になっているものを見たことはないだろうか。モンハン(ps2pspのものだから今はわからないが)のボスキャラクターから素材を剥ぎ取る際にモンスターの中身が透けて見える、というのが良い例だろう。

そう、つまりゲームの中(3DCG)の彼らは外骨格を有しているのだ。

そして昆虫、ないし外骨格を有している生物はこの世にごまんといる。中にはカニやエビのように、中身を確かめて食べたことがあるものもいる。

しかし私はカマドウマの中身を見たことがなかったのだ。

この考えが正しいものである、と証明したい。しかし、その場合、私はこの密室の角にめり込んだ彼を殺さなければならない。体を横に切り刻み、輪切りにされた彼を眺めることでしか答えは出ない。

…やめておこう。私は現代社会にすっかり馴染んだ科学の子の1人ではあるが、それと同時に人間の子なのだ。

無益な殺生、中でも命を弄ぶような行為を御法度とする我々にその行為は愚かな結末しか招かない。そんな気がしてしまう。それに、この仮説の真偽を確かることによって、我々はまた一つ宇宙のロマンを潰すことになりかねないのだ。

私は今日も彼を眺め、ため息混じりに少し微笑み、そしてその密室を後にするのだった。

 

翌日、彼はいなくなっていた。天井の角から目を下に、床を眺める。彼の姿はない。

ああ、「抜けた」のだな、と。安堵と同時に少し寂しさみたいな感情が私に降りかかった。

便座に腰かける。

ふと後ろから声がしたように感じ、振り向いたがそこには何もいなかった。

声は裏声混じりの高い音で、「イヤッフゥ」と言っていたような気がした。