誰かに怒られない為に、怒られそうな話題を考える

(あくまでネタ記事です。その上でどうか怒らないでお読みください。)

 

 

1.怒られた。

先日のことだ。
母とテレビを見ていた。化粧についての話をバラエティでしていた。
男性は化粧する必要なくて楽だよねとか、最新のものが増えすぎてついていけないとか、何かと母と盛り上がった。
そんな中、私は母に言った。
「お母さん中学の授業参観の時にメイク濃すぎて、アレ友達からドン引かれてたんだよね」
と。これがいけなかった。
たしかに母からしてみたら娘の晴れ舞台に参画する唯一の機会、娘にとっての恥にならぬよう母としても最大限気を遣い、自分なりの武装をしてきたのだろう。
しかし、いかんせん派手な装備があってもその着用方法があってなければ騎馬隊の群には敵わないのだ。母は典型的な厚化粧に失敗した顔でやってきていた。
あの時はそれはそれは恥ずかしいものだった、キツく当たってしまったことは今となっては子供じみた駄々であるし申し訳ない部分もある。しかし今となっては自分の中でむしろ笑い話にまで昇華していた。自分の中では。
母にとってはどうであったか。
「何よ!お母さんだって頑張ってるのよ!」
反応を見れば明らかであった。
地雷。母とて1人の女性なのだ。
件のイベントは母にとって相当に辛い思い出だったに違いない。私はその力強い感情が篭った純然な「怒り」を前に思わず平謝りをした。

迂闊だった。まごう事なき私のミスだ。
孔子の「恕」の教えには「自分が嫌がることを人にしてはいけない」という言葉がある。この場合は「私がもしも母の立場であったら」という想定を基に発言を考えるべきであった。
しかし、自分の中で腑に落ちない点も存在していた。前述の通り母と私がテレビを見ながら会話をしていた際のこと、私たちは男性の想定もないままに「化粧無くて楽そう」という話題を出して笑っていた。
母もまた、他人の「もしも」を汲み取っていなかったのだ。
しかし、何気ない談笑の際に果たしてどれだけ人は理性的でいられるというのだろうか。会話が弾めば弾むほど、声のスピードと大きさは無作為に上がっていく。
ある種「興奮状態」の渦に飲まれて加速する会話の中で最早他人の「もしも」を汲み取る暇など残されてはいないように感じる。私たちは常に気を遣っていては疲れてしまうのだから、それも当然だ。
そこで、だ。
話をする際に、「話題」は必須になる。
仮にその「話題」が過激なものであったなら他者の地雷を踏むことは散発して起こりうるだろう。しかし、一見過激とは縁もゆかりもない「話題」でも地雷はひょんなところからやってきてはいつのまにか足元に転がっている。逆にそういった気軽な「話題」にこそ地雷原への進入に気づかないまま足を踏み入れていたケースが多いように思う。

ならば、あえてその地雷原たる「怒られる話題」というものを分析することで、平和で開けた草原のような清い「話題」がわかるのではないだろうか。
導入が長くなった。私が今回注目するものはこれだ。
全ては私が怒られない為に。私利私欲の研究の始まりである。

 

2.怒られないとはなんなのか。

怒るとは。辞書にはこうある。

 

1.不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。「真っ赤になって―・る」
2.よくない言動を強くとがめる。しかる。「へまをして―・られた」

 

1、2には共通する文脈として不満、不快、よくないこと、という観点からそれぞれ行動に移っている。
反射的に人は行動した後に怒ることはまず無いはずだ。
先に自分にとっての不快を五感で受け取り、その情報が脳へと向かう。それが怒りの感情として脳で読み込まれ、今度は脳から脊髄、そして体の各部位へと(大概は口と手だとは思うが)怒りを示すための命令が送られ、実行するフェーズへ移る。
こう考えると「怒る」は反射的に現出するものでなければ、無意識的な行動とはかけ離れたものなのではないかと言える。我々は常に意識的にブチギレている。
ならば不快を伝達するための各種神経を一本一本丁寧にちょん切ったり手術を施すかなどといったことはできるはずもないので、何か別の対策を練らなければならない。
しかし、人には必ずしも好みが存在する。人と話す行為とは、互いの好きなもの嫌いなものから始まることも多いし、それを抜きにしても話題は人の好みにかなり左右されている。
そのため第一に考え付く対策として、好みの介入がほとんどない、または決してない話題が望ましいのではないだろうか。
ともすればそれは何か?天気の話は雨が嫌いだったり、晴れが嫌いだったり、その逆であったりと個人間の差異が生まれやすい。気温や湿度もそうだ、そうそうジメジメした感じが好きな人もいないとは思うが、そう考えてしまうことこそ誰かの地雷原への第一歩だ。ことは慎重を要する。


3.本題。怒られない話題について。

私が最初に思いついたのは、「時間」だ。
「時間」、とは我々人類が共通認識として日常に根ざした「事実」だ。
時間と言っても、「今日何日?」「何曜日?」などは避けたい。これもまた相手に気を遣わせる会話になる。例えば日付が月の終わり頃だった時、または季節の変わり目だった時、「うわ今月もう終わりかよ」とか「うわもう冬かよ」みたいな会話になりかねない。曜日においても金曜日で明日が休みとなれば嬉しいが火曜あたりだと気持ちが辛い、これもどのみち好みに左右されている。
ならば「今何時?」はどうだろうか。サザンのアレだ。
今何時?と相手に言える状況に好き嫌いはほぼといっていいほど存在しないのではないか。
しかし、夜中に会話している時だと「うわもうこんな時間?」みたいなことは起こりうるやもしれない。
「時間」は「事実」であり、その枠内のテーマにおいては時間にまつわる陰謀論者の方でない限りは好みに左右はされない。しかし、「時間」が包含するものは「事実」にとどまらず「日常」においての好みが出るテーマへの移行が実に容易だ。「事実」という点では「怒られなさそうな話題」として有力ではあるが、それでも「怒られそうな話題」としての効力を持っている。
しかしいいことを見つけた。共通認識されている「事実」に好みは発生しないということだ。これは「事実」という話題の中に「怒られない話題」があるかもしれないということだ。
さらに言えば、相手が特定の会話から別の話題に横展開出来ない状況を生み出せば、さらに怒られるリスクを減らすことができる。
これは解決策に近づいている証左だ。

さて、事実といえば、教養における「算数」はどうだろうか。
「1+1=?」という問いに対しては、「田んぼの田」のような論理性に欠いたジョークを除けば「2」と返すのが道理だ。
しかし前述のジョークを考えてしまうと、これは帰って別の話題をうむリスキーな話題と言える。
つまり、あまり簡単すぎても良くないが、すぐにわかるくらいの計算が望ましいのかもしれない。それこそジョークにならないような。
そこで友人と考えた。
アラビア数字の中で最もつまらない数字とは何かである。
最初に目についたのは7だ。7はあまりにも過大評価である。
1を少しずらしたような、斜に構えた態度、七福神などともてはやされているが実際はジジイのおかぶり、七色の虹は日本だけ…と枚挙にいとまがない。その上次の数は「はち」と語感までかぶる始末。8のが数千万倍面白い。
次は4である。4はアラビア数字の中でも形が異質すぎる。画数二画だし、一画で描くにはバランス取りづらいし、何より弧がなくて漢字っぽい。実に面白くない。
つまり、である。

…「7×4=?」と聞かれた時、人はどう答えるだろうか?
これに関して私は「28」以外に別解が思いつかない。
仮に「しちし」と言われても掛け算以外で思いつくものがない。「しちし」は28である。そもそも「しちし」がめちゃくちゃ言いづらい。その後の「28」も妙に気持ち悪い。
「7×7=49(しちしちしじゅうく)」と比べても、圧倒的に発音した時の気持ち悪さが凄い。
話者A、Bを想定して会話文にして見ても、

 

A 「7×4=?」
B「28」

 

この会話の文章から怒りを読み取ることはできない。
どうせならばと家族でも試して見たが、皆同様にBの返答であった。

やはり「7×4」には「28」以外あり得ない。
これは間違いなく、私が望んでいた、平和の約束された会話である。
これさえあれば、会話で怒られてしまうかもしれない恐怖から全ての人類が解放されるのではないだろうか。
といってもまだ検証段階であることに変わりはない。これから出会う人間には全て「7×4=?」だけで話しかけることで完全性を証明していこうと思う。

 

4.まとめ

いかがだっただろうか。
社会性動物である我々にとって、会話というコミュニケーションは必要不可欠だ。しかし、いつだって誰だって怒られたくは無いはずだ。
そんな時はここで片品が提唱した「7×4=?」理論を是非全人類は用いてほしい。
会話が長引くことも、別の話題に行くことも、そして怒られることもないまま、あなたの話者はこう答えてくれるはずだ。「28」と。
なんと美しい、平和的で円滑な会話だろう。
これが我々人類のコミュニケーションにおいて最高のものであると信じて、私も今日から全身全霊を用いて布教していくことにする。
いつか全人類が「7×4=?」しか言わなくなるその日まで。

7×4=28、7×4=28、なのです。

以上、7×4=28、でした。

 

 

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