サブスクがある時代だからこそミュージックビデオ鑑賞をしたい

 



 

 


PV(プロモーションビデオ)、という場合が最近は減ったような感覚がある今日この頃。


最早各種音楽サブスクライブで聴けない音楽のほうが少ないと錯覚をするようになる程、現在は音楽を気楽に楽しむ機会が増えた。逆に言えば一度噛んだガムを捨て、また口に新しいガムを頬張るような勢いで音楽は消費され始めた。

それは作成者が丹精込めて生み出した大切なモノを消費者はただ3、4分の間アルコール度数3%程度のレモンサワーを何缶も飲み干すようなつまらない感覚で大量に消費していく…といったようにメディアは映す時がある。現にCDやライブチケットの売り上げは年々減少傾向にあり、サブスクライブの収益性の悪さはこれを裏付けするように存在する。


このような意見はおそらくコンパクトディスクの台頭、ウォークマンiPodの出現、ガラケー時代に隆盛したリスモ等各通信会社の音楽ダウンロード機能など、当時から嘆かわしい問題として音楽メディアには度々扱われていたし、ネットの拡散力故に目立ち始めたのは事実ではあるが今になって問題視され始めたわけではない。さらに言えばこの考え方に対して「人それぞれの音楽の楽しみ方があるし、なんなら現に自分は音楽をしっかり享受できている」と疑いの意見を抱く方もいることだろう。

私としてはこの意見を強く尊重し、賛同したい。その上でそういった考えを音楽に抱ける人が増えていけばと思う。もちろん私は音楽家でもないし、何か役に立てる言葉といえばブログにこのような駄文をぶちまけることくらいしか出来ないわけだが、少しでも音楽に携わってきた方々が救われればと切に願い、その意志をここに記したい。

ここからはそんな音楽の様々な楽しみ方の例を少し紹介させていただいてから本編に移る。


音楽は高級なイヤホンでハイレゾロスレスな音源を聴覚のみを頼りに楽しむだけがその術ではない。それはクラシックの天才ピアニストのリストがライブパフォーマンスとして必要もなく腕を交差させる姿を見れば一目瞭然だ。ライブパフォーマンスによって視覚から得られる音楽の表現の濃淡はより強さを増し、聴き手に印象をより深く刻みつける。「ロックギタリストは顔で弾く」といった言葉は極端ではあるがジミ・ヘンドリックスを想起すれば逆向きのストラトキャスターと共に魂を全て費やしたようなあの表情が脳裏に浮かぶ。それほどまでに視覚情報が聴覚に与える影響は大きい。

これは視覚に限った話ではなければ聴き手に限った話でもない。演奏を行う側の触覚なども強く音楽に影響する。ピアノの鍵を弾くあの感覚、ギターのピックを弦に擦り付けるようなあの感覚。日本人なら殆どが経験するであろうリコーダーも指で穴をキチリと塞いだ時に流れる綺麗な音色。あの心地よさがそれである。

味覚や嗅覚となると完全に言い切ることはできないが、お祭りで和太鼓や尺八の演奏を聴いた際の手元には、心をくすぐる香りを放つ焼きそばや綿飴があったと思う。もちろん現在日本でも再開し始めた音楽フェスにもおいしい食べ物は付き物だ。これは音楽で食欲を感じたのか、食欲が音楽をさらにアゲているのか「タマゴニワトリ」的な話になる為少し論点とは逸れてしまうような気もする。もしかしたらこの先に「音楽をさらに楽しむ為の食事」という概念も生まれ出るのかもしれない。もちろんクスリやハッパはそこに該当しないモノとさせていただく。当人がそう思うならそうなんだろうがこっちの知ったことではない。


前置きが長くなったが、ここから本編とする。

五感で最初にあげた視覚と聴覚についてのお話に再度戻す。

タイトルの通り、特定の音楽には専用のMVが存在する。それはもちろん曲のテーマ性や歌詞、世界観、さらにはリズムやテンポに沿って様々な表現の工夫を凝らした映像になっており、常にその音楽に更なる深い印象を与えるために生まれてくる。イントロから走り出す女子高校生、サビ前、一瞬の静寂に割れるガラス、ギターソロの最中にアオリで、広角でカメラが捉えるリードギタリスト。これらの効果やストーリーを組み合わせて生まれる職人芸がなせる技だ。アニメやドラマのOP、EDなども同じモノとして捉えていただいても構わない。さらに言えば有志で作られたMADなる文化によって、様々な音楽に視覚的効果をもたらした(こちらに関してはグレーゾーンである物が多い為、見る際には注意されたし。)

そんな中で個人的に愛してやまないMVを5つ紹介させていただく。もしかしたら聞いたことのある楽曲があるかも知れないが、MVは見たこと無かったりするのであればこれを機に是非見ていただきたい。

 

 

 

 

Jamiroquai- Virtual Insanity

(おそらくVEVO社の意向と思われるが、紹介するMVの中には一度YouTubeの方へアクセスしないと見ることができないものがある。お手数をおかけします。)


www.youtube.com


www.youtube.com

(HD版)

MVの話でこの楽曲を語らないなら今まで書いてきたことは嘘八百と道義だ。もちろん、この楽曲とこのMVはもはや知らない方の方が圧倒的に少ないと思う、今や伝説的なMVだ。個人的にもジャミロクワイを思い浮かべたら変動床と曲線的なハットで踊る彼なの姿が第一に浮かぶ。ジャミロクワイカップヌードルがいいらしい。今回は誰もが飽きるほどみたこのMVをあらためてじっくりと楽しみたい。そして、私なりに再発見できたこの映像の魅力をお伝えしたい。

現在HD版が出ているが、自分は折角なので当時の画質で見たいと思ったのでMVのリンクは分けておいた。見比べても面白いかもしれない。

まず、この映像の画角こそこの映像が至上の1つである所以だと私は言いたい。

鏡写しに穴が空いた壁、シンメトリーで無機質な空間。二つのソファ、二つの壁の灯り、十の電灯。

この空間は常に偶数的なのだ。

そのなかで一人、奇数を作る者がいる。

それがジャミロクワイ本人。理路整然、ある種不気味に並べられた空間の不和となるのが「人間」、もといタイトルの通り「虚像の狂気」そのものなのだ。

この曲のテーマである「狂気」「自分じゃなくなる感覚」といった漠然とした恐怖心を開始1秒で感じさせてしまうような作りになっていると思う。

えげつない、このPV。

よくみるとジャミロクワイ本人も帽子含めシンメトリーに見えて、上着の胸元に小さいワンポイントが付いている。

遠近法によって目線が真ん中に集中していき、ジャミロクワイを捉え、そしてシンメトリックな服装に紛れて目立つ、胸元のワンポイントへ行き着く。これによって目線がジャミロクワイのダンスから離れない。

よくみると、ジャミロクワイの最初の進行方向は左寄りだ。真ん中は白のワンポイントになっていることにお気づきだろうか。

流石に考えすぎなのかもしれないが、おそらくこの映像にはそれくらいの効果を意図していても不思議ではない。

次にやっぱりジャミロクワイのダンスだ。

カッコイイ。これはマイケルジャクソンにも言えることだが、カッコイイダンスは興味のない自分のような素人が見ても文句つけようなくカッコイイ。

個人的な感想だが、これもあまり見慣れない振り付けだったのが影響している気がする。

ダンスというとジャニーズのような生の躍動感たっぷりなダンスのイメージが自分にはある。しかし、このジャミロクワイのダンスには、生気を感じるというよりかは、むしろ不気味に映る。ロボットダンスとも言えない、絶妙なくねりを見せるダンスは実に奇妙である。

しかし、それが困ったことに大変魅力的だ。美しい、とさえ思う時もある。

全体的にフワフワして着地点のない感想と考察になってしまった。まだまだ語りたい点はあるが、キリがなさそうになってきたのでここで。

 

 

 

 

Blur - Coffee & TV


www.youtube.com

 

ブラー。オアシスと1、2を争ったブリットポップのキング…だなんて話は各ブログやYouTubeの解説で今でもやかましく騒がれている話のため割愛する。

話が逸れそうなのでちゃんと戻す。不穏な雰囲気のギターハーモニクスから入るイントロ、Aメロのグランジ感のある情緒不安定なコード感とメロディ、サビのカーテンの隙間からこぼれた日の光くらいの陰鬱な明るさを感じるハーモニー。単調気味でのっぺりしたドラムスタイルも相まって、ある種悩みすぎて開き直ってしまったかのような哀しい明るさを感じる。間奏に挟まる歪みきったノイジーなギターが他楽器とのギャップに追い討ちをかけていく。

そんな不安と空元気をコーヒーに溶かしたような音楽の中、カメラが追いかけるのは、牛乳パックに顔がついて手足が生えた…何これ。

何かはわからないが、漠然と可愛い。

可愛い牛乳である。コーヒーじゃないんかい。

静止画で見るとやたら手足が生々しく不気味な感じに思えるのだが、動きが加わるとその印象は大きく変わる。

そう、この牛乳パック、動きが一挙手一投足可愛い牛乳パックなのである。

これは本当に映像の妙だなと思う。ここまで可愛らしい動きの概念は見たことがない、いやそもそも牛乳パックの動き方など知るはずもないし、知っていたら病院に行くべきだ。

ストーリーとしては行方知れずになった息子(作品中ではバンドのギタリストである「グレアム・コクソン」が演じている)の手がかりもなく打ちひしがれる家族を笑顔にするべく、牛乳パックが街中を旅していく。そうして様々な苦節を乗り越えてとうとう息子を見つけて息子が家族を想い家に帰ってくる…という流れだ。

女の子の牛乳パックが踏み潰されてしまったり、錆びた涙を浮かべる空き缶などのショッキングなシーンも、ただ牛乳パックの明るい冒険だけではないことを音楽と共に示している。最期牛乳パックは息子に思い切り飲まれてしまうのだが、家族との再会を無事に見送り満足気に散っていく最期の表情はいつみても切なくも我々に感謝の気持ちをもたらしてくれる。最後パイプオルガンのアウトロと共に天に召される牛乳パックの翼がやたらリアルなのが少し笑える。

歌詞は内向的で情けない自分自身を自虐したような、同情を求めるようなややひねくれた内容になっており、この音楽とMVの平和の中に小さく芽吹く退廃的な雰囲気をさらに醸成させる。

このMVにしてこの音楽、この音楽にしてこのMV。

一瞬ミスマッチにも思える二つの不安定さが生む美しさは本当に素晴らしいと言わざるを得ない。

ブラーは他にも良MVな曲に溢れているので、是非ご覧いただきたい。

蛇足ではあるがこの曲の作詞、さらに息子役を演じたギタリスト、「グレアム・コクソン」についても是非ウィキペディアやインタビューで知っていただけるとこのMVの印象がさらによりよく映ると思う。お暇があれば。

  

 


Dragon Force - Through the Fire and Flames


www.youtube.com

 

奇しくもUKに偏ってしまった。

メロディックスピードメタル、通称メロスピ。言葉にするだけでなかなかに重厚ですこし臭みのあるそのジャンルの頂点ともいうべきバンドがこのバンドだ。

もしかしたらこの曲、さらにこのMVは見たことがある方も多いかもしれない。基本的にはバンド演奏を様々なカメラワークで取る形で、別段ストーリー仕立てであったりとかするわけではない。しかし、ある一点でこのMVは革新的な輝きを放っているし、現にそれがきっかけ…というと語弊があるかも知れないが、日本でも話題になったことは間違いない。

このMVの実に素晴らしいところは、後半のツインリードギターによる怒涛のソロ。ウン十年練習しようができるか定かではないそのラッシュは、なんとMVで手元解説映像をワイプで映している。

文字で書いてみると更にわかる。異端だ。

言うなれば「弾いてみた」動画のような画角で映し出されるギタリストの腕は、正直早すぎてブレブレで素人目には何してんだか何にもわからない。というなMV中のギターの動きが一つもわからない。「これいる?」のオンパレード。

しかし、先述したピアニスト、リストの話を思い出してほしい。これはまさに演奏なのだ。機械的に生み出された物の精巧な美しさとはまた違う、荒々しき雄叫びのような獣的逞しさ、そこに漢を見る。

映像の中で荒れ狂う獣達の咆哮は、画面を通じ視覚に確かに訴えかけてくる。これは一種の美だ。そしてなんか漠然と「勝てない」という単語が浮かぶ。そう、我々はこの音楽という広大なサバンナの中、ライオンに追い詰められたシマウマになっていたのだった。

何を言っているかわからない?安心していただきたい、自分も何を言っているかわからない。とにかくこの映像には聴覚だけでは伝わりきらない「スゴ味」みたいなものがあるのだ。

話は変わるが、ドラムが凄い。ずっと暴れてる。子供が床に寝そべってする駄々の速度で5分間暴れ抜いてる。

まさしく超テクニカルな音楽とクラシカルでキャッチーなフレーズが行き来する壮大なスケールの音楽に、バンドメンバー達、いやかっこよさの権化達が咆哮する映像がこの5分に詰め込まれているのである。ちなみにこれはアニマルビデオの説明ではない。

何度でも見てほしい。最初は正直笑ってしまうが、100回見てればだんだんカッコ良すぎて泣けてくる。単に頭がバグってきてしまったのかもしれないが。

 

チッツ - 出番のないひと

www.youtube.com

 

このMVよりさらに強烈なMVの曲もあるのだが、個人的にはこの曲とMVを強く推したい。今回紹介が色んな意味でできないそちらは自分の目で確かめてほしい。

曲調としてはまさに60’sロックンロールを現代風に昇華し、見事日本語との調和に成功させている音楽であり、ザ・ドリフターズザ・タイガースを思わせる雰囲気だ。しかし、その前線に躍り出る歌詞は驚くほど寒色の油絵具。ムンクでも勝てないフタロブルーな世間や人々への不満や苛立ちが叫びとなって耳に響く。ボキャブラリーなぞ知らぬ、マズローの下層たるような純粋な欲求不満を並べたてた歌詞は響く人には除夜の鐘が如く煩悩に響く、ある意味魂のロックンロールだ。

そして肝心のMVなのたが、私はこれを見て感動した。

ジェットコースターという媒体にボーカルを乗せてただ撮ったMV。それだけ。本当にそれだけ。

「いやいやそれって手抜きでは?」

そうじゃない。逆だ。これで良かったのだ。

先ほど言った通り、歌詞のド直球なブルーのバイタリティがこの曲の肝だ。そんな小さく浮いては深く沈む、つまんねぇ全ての陰鬱な人間が義務として歩む人生こそ乗りたくもないジェットコースターそのものであり、乗車の際に浮かべる表情そのものなのだ。

乗る前の顔からも慣れていない、嫌さ加減が出ている。乗った後コースターが登っていく際の歌詞では「もうやだよ」と言葉が出る。「もう嫌」という言葉が真に出るのは確かに顔を歪ませて叫ぶよりも死んだ顔で天井を見ている時の方が遥かに多い気がする(あくまで私の経験則ではあるが)。

そうして始まる鬱屈な人生の象徴、ジェットコースターのそれ。早い、怖い、叫ぶ事しかできない、目が乾いて泣く暇もない、というか下手すれば○ぬ。音楽は陽気なサビなのがまた皮肉でありギャップ感に思わず笑顔が漏れる。

2番以降の上裸のメンバーのワイプは本当にわからない。睨みつけるような、途中から何かにキレているようや顔がかなりシュール、というかまさかワイプが出てくるMVで被るとは思わなかった。偶然です、偶然。

そしてどうにか地獄を乗り切り、ジェットコースターから解放される。

その時の表情もまた良い。あたりを目で見回し、小さな不思議そうな笑みを浮かべる。人生においての苦難は嵐のようにやってきては私たちを混乱させるが、止むときも嵐のように忽然である。そんな空から急に消えた曇天を不可解に思いながらも心は些細な安らぎを得る。

まさしく曲の歌詞のテーマに見事に当てはまっている。音楽の陽気さもそんな人生のキツネにつままれたような感覚を見事に投影している。そう、「やられたよ」というわけだ。

これら全てをジェットコースターからの一カメラで抑え切っている。こんな完璧で無駄の無い表現手段があっただろうか。私はこの作品に惜しみない賞賛を送ると共に、ワイプの謎について制作スタッフに問い合わせしたい。

 

 

 

Mdou Moctar -Chismiten


www.youtube.com

 

ニジェールから世界へ話題を集め始めているアーティスト、もとい彼が率いるバンド、エムドゥ・モクター。

通称「砂漠のジミヘン」。そのあだ名は伊達ではなく、ギターがバカみたいに上手い。その上バンド全体のレベルも高く、弛緩した雰囲気を感じ、大地の美しさやエネルギーに満ち溢れた感じを想起する曲の裏側でタイトなリズムが恐ろしいほど正確に刻まれていて、ライブを見ていても曲を聞いていても本当に飽きない。

ジャンル的にはデザートロックというらしい。このバンドを知らなかったら一生知らなかったかもしれない。逆に言えばここまで伝わるほど彼らの最高の演奏が轟いたというべきか。

そんな中、彼らの代表曲のMVをご覧いただきたい。

…初見の感想としても、うまく言葉として形容が出来ない。

なんならシュールに映って少し笑ってしまった。

ただ、わかりやすく語彙のレベルを落とすのであれば「好き」に尽きるのだった。

このままでは小学生の作文以下になってしまう。なので何回も見返してみた。

そうして、このMVは、まさしく「異国」という概念を象徴していると思った。

まず初めに、これは日本人には絶対作れないと思った。

まず初めに幾つかのlive2D的な素材に着目したい。これにはサイケデリック的な発想を感じる。が、使い方が全面的ではなく、一定のスパンであったり、たまにパッと画面に現れたりするだけで、背景が大きく変化することもない。曲調のゆるやかな風のような雰囲気に合わさるように、ド派手な効果はまるでなし。そこがサイケデリックと離れている点でありながら、まるで白昼夢のように切り貼りされたそれにはサイケデリック的な技も感じる。

常に映像が出鱈目に映り平面的なものに見えるが、視覚的な効果としての素材の使用法がかなり特殊で、今までに見たことがない。日本人、というより西洋的な観点からカメラの画角として三分割法などがあるが、そういった今までに常態化していた効果を真っ向から否定しているように感じる。

もちろんサイケデリックも1つの手法であり伝統だ。極端に彩度を上げた幾何学模様を映し出すような映像には目は痛くても思わず顔が前のめりになっていくような高揚感を与える。しかし、この映像にそんな幾何学模様も彩度もない。

ただ、静かに砂漠の平野が広がっていく。自然の神秘を目の当たりにしていく。

これがおそらく日本や西洋など金銭を大幅に要求されて作られたMVとの徹底的な差異かもしれない。思いつきもしなかったような、それこそ永き土着の伝統がなせる演奏と映像なのかもしれない。

これまた感想が蒙昧でやや突飛になってしまったが、少なくともこれだけは言える。

最高。

 

 

 

 


まとめ ~MVは音楽の「影」を映す~

 


さまざまなアーティストのMVを紹介させていただいた。

いかがだっただろうか。

今にして好き嫌いはかなり分かれそうな個性的なMVばかり紹介してしまった気もする。ただ、その楽曲の印象を引き立て心に深く刻まれる良いMVを紹介できたと自分は思う。

まとめの題目の通りだが、MVが我々の目に見せているのはその音楽の「影」だと私は思う。

まずもちろんのこと音楽は実体は持たないし、そもそも聴覚が感じ取るものである。我々には音楽の実像や本質的なものへと手を伸ばし、掴むことはできない。

しかし、我々はMVという手段で、音楽が出している「影」のようなものが見えるようになる。

つまりは、音楽を可視化するための虚像の一つとして、MVはあると思うのだ。

この音楽のイメージやテーマからそれを作った方々がその音楽に抱く姿を画面に投影して出来上がったそれは、製作者が見ても我々が見てもまず間違いなく同じ映像ではある。

しかし、「影」が角度で大きさを変えるように見え方や感じ方は千差万別だ。手遊びで作るウサギやキツネのように光の向きによっては形すらも違って見えるかもしれない。

だからこそ、そのMVを基に考察したり絵を描いたり小説なんかにもしたりして自分の見えた「影」の解像度をさらに高めたい人や、別角度からライトを当てて自分だけの「影」を作り出そうとする人など、MVという最初の「影」へのアプローチからさまざまな「影」の世界が生まれていくのだろう。

長くなりましたが、この記事をを読まれた方へ。

今回紹介したMVからあなたはどんな「影」を見ましたか?

クサい締めではありますが、今回はこれにて。

片品でした。

 

MUSIC VIDEO

MUSIC VIDEO

  • provided courtesy of iTunes