「わたしの人生の物語」ではなくなったもの――私的『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想

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【注意】本記事では『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の内容を扱っています。

 

今年3月8日に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

皆さんはもうご覧になりましたか?

 

先日、7月21日に終映が決定した本作。私も何度か観たのですが、いろいろ思うところがあったので、この気持ちが比較的温かい今のうちに私的『シン・エヴァ』感想文を書いておこうと思います。

 


『シン・エヴァンゲリオン劇場版*1』。

緊急事態宣言の発令もあり、途中、一部地域での公開休止を挟んだりはしましたが、執筆を終えた投稿日である7月15日も公開中。7月21日の終映まで、もうしばらく走れそうね。

 

去る7月11日には興行収入が99.9億円を超え、翌12日にはついに興収100億円の大台を突破。庵野監督が「ロボットアニメという非ファミリー層向けのニッチなジャンルで100億を目指せるのはありがたいこと」と『シン・エヴァ*2』の大ヒット御礼舞台挨拶でおっしゃっていたのはちょうど3か月前でした。当時は70億を突破した頃だったので、1か月で10億円というペースで増えていったことになります。すごいねぇ……

 

当の私は、『3.0+1.0』を通常の劇場とIMAX劇場で計2回、そして『3.0+1.01』版を極爆で1回と、計3回鑑賞しました。

複数回鑑賞したのには「1度では理解しきれなかった部分があったから」「ヴァージョン比較のため」という理由が当然あったんだけど、自分の中でかなり大きなウェイトを占めていたのは「なるべくいろんな上映方式で観てその差異を楽しみたかったから」というもの。特にIMAX版については、カラー公式が「『シン・エヴァ』はIMAXシアターにおいて最大の魅力が引き出されるよう調整してある(意訳)」とツイートしていた*3こともあったため、どこかのタイミングで一度は体験しておきたかったのです。

そしてなにより、『エヴァンゲリオン』シリーズ作品を劇場で観られる機会は今後の人生でほぼ無さそうだったから、映画館で観れる内になるべく観ておきたかった。

 

『シン・エヴァ』の感想の前に少し、私とエヴァの話をしようと思う。

エヴァンゲリオン』シリーズは小学生の時に友達に教えてもらった作品で、少し前までは「ちょっとえっちでちょっとグロテスクで、昔の方はよく分からない最終回が2つあって、新しいほうは未完結な、大人っぽくてカッコいいアニメシリーズ」という印象でした。

しかし数年前に旧アニメシリーズ(以下、旧世紀版)改めて見直す機会があって、その時に初めて作品の、特に最終話周辺のメッセージを理解したのでした。

 

「世界は自分の認識次第であり、他人がどう言おうと自由に生きていい」

「人はさみしがり屋の生き物で、だからこそ他人とどうにかやっていかないといけない」

「でも他人とやっていくのは時にめっちゃつらい」

「けど、ダメでもじたばたやっていくほうがいいし、きっとやっていける。だって生きてるんだから」……

 

あの見直した時からこの作品は、「わたしの価値観を変えた、わたしの人生の物語」として私の中に生きてきました。

「悲しいことがあっても気にしないで! ただただ前を見て歩いて行こう!」という明るく前向きな物語……というわけではなく、どうしようもなく暗く、光も受け取れない「自分」という現状を見据えながらも、そんな深海からの脱出を試みるための傷と涙の物語。

倒れそうになりながらもマイナス状態からの再起をしていこうと視聴者に促す、実直で前向きな物語だと気づいたのでした。

 

だからといって、エヴァを理解した直後からいきなり「擦りむいてもまた立ち上がれればいいや」と常に思えるようになったわけじゃなくて……本当にダメなときは「こんな自分は死んでしまえばいいのに……」と思ってしまうこともある。でも、『エヴァ』から学んだことはまだまだ全然私の中で生きていて、ネガティブになった時には夜の海を照らす灯台のように、私の人生を正しい方向に導いてくれたり導いてくれなかったりするのです*4

 

一方の新劇場版は「エンターテインメント性に振り切ったリブート版」という情報を入れつつ観ていたので、精神面の描写の秀逸さよりも映像表現の先進性に注目して、アップデートされた大迫力の戦闘シーンを楽しむことに重きを置いていました*5。だから、『Q』まではそんなに心理描写を深く見てはいなかった。

 

しかし、8年前に公開された『Q』の最後の最後。

目が冴えるような白地に黒字で記された最終作のタイトルは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」ではなく「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でした。

そして、公開前にリリースされた『シン・エヴァ』本予告でのシンジくんのセリフは「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」。

 

最終作で「エヴァンゲリオン」表記を使ったのには「旧世紀版からの全作品を総まとめする」という意図があったのか。それとも、『破』~『Q』のブランクが長すぎて庵野監督が「ヱヴァンゲリヲン」表記にするのを忘れてい(て、全国の劇場に『Q』のフィルムが渡った後で「忘れてたー!!!!!!😨」と青ざめたりし)ただけなのか。

シンジくんに「さようなら」を告げられている「エヴァンゲリオン」は作中の人造人間の各機を指すのか。それとも、メタ的に作品シリーズそのものを指しているのか……

 

いずれにせよ、「新劇場版シリーズだけではなく旧世紀版も含めたすべてにケリをつけるよ」というメッセージを所々で感じさせてきたシリーズ最終章、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

そんな作品に私が期待することは、もちろん、「旧世紀版以上の価値観の変化を自分の人生に与えてくれること」でした。

 

さて、どうだったかな???

 


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画像右の半券にも記載されている、去る3月11日。

東日本大震災から10年を迎えるこの日が、私的『シン・エヴァンゲリオン劇場版』初日。

ついでに『Q』の時の半券も一緒に見て(画像左)。

これは意図しなかったことですが、結果的に8年前と同じ劇場の同じシアターで観ることになり、環がひとつ閉じたような感覚がありました。

さすがに座席はちがったけどな。

 

その初日の感想としては、✨「本当に良かった」✨「おめでとうの気持ち」✨「終わってくれて安心した」✨「ネオンジェネシス」✨……という綺麗で美しい言葉はなかなか頭に浮かばず。

いちばん初めに思ったのは「シンジ君が先に大人になってしまった」というものでした。

 

前述のとおり、私が『エヴァ』というアニメシリーズに惹かれたのは、その「ひたむきさ」ゆえでした。苦しみながらも、血に、汗に、L.C.L.にまみれながら、他者ひいては世界と関わっていく少年の物語。

すべての人間に共通する苦しみをまっすぐに見据えるその心意気に惹かれたと言ってもいいかもしれません。

 

そんな旧世紀版への想いを胸に、いざ挑んだ『シン・エヴァ』。旧世紀版を超える、予想もつかないような人生観の変容を期待していた私は、その内容にすこし拍子抜けしてしまいました。

 

なんとなくのストーリーはもう各所で語られておりますが、ざっくり解説すると……

『Q』終盤、槍で世界をやり直す*6こともできず、唯一の理解者とも言うべき友人・渚カヲルを失ったことでうつ状態*7に陥ったシンジくん。しかし、なんとか辿り着いた第3村の人々の優しさに気づいたり、アヤナミレイ(仮称)ちゃんと交流したりして、少しずつご飯も食べられるようになったり、釣りができるようになったりと、徐々に生きる活力を取り戻していきます。

 

しかし、元気を取り戻したのもつかの間、村で大切な人との永遠の別れを経験してしまったシンジくん。でも、もう負けない。負けない負けない。なぜなら自信があるからです。

 

時を同じくして、現ネルフとの最終決戦を控えたヴィレの空中戦艦ヴンダーが第3村に寄港。それを見たシンジくんは、アスカと共にヴンダーに乗り込み、ネルフ、そしてそれを率いる父ゲンドウとの戦いにケリをつけることに決めました。

 

で、いろいろ

(🚢🚀⛴️⛴️⛴️⛴️💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀▼💥🛥️💥🛥️💥🛥️💥🛥️💪🔪💪🔪💪🔪💪🔪✝️❤🛡️🗡️😨→👹🔋💦🐥🍴💥🛥️👁️😰😎🗝️💥🔫🧠…😐…👋😎🤖🤖😐🔫😠💥🔫⚓🌸😠😍😠😍😠😍😠😍😠😍😭😭😭😭😭😭😭😐👚✋🤓🤖🌫️🌫️🌫️≣😎≣🌫️🌫️🌫️🙂😔😉≣😎⁉0≒∞🤖⚔️🤖☦️😐👤😎🤖⚔️🤖🏙️🤖⚔️🤖🍶🤖⚔️🤖🏫🤖⚔️🤖🏢🤖⚔️🤖🍉🤖💬🤝🤖💬🚃💨✨🛥️✨🙂(😇)😎⁉👋)

あって……

 

いろんな人の想いを胸に、シンジくんは父親ゲンドウと対話。ゲンドウも、探し求めたユイの姿をついに見出すことができ、シンジくんと和解します。父親の魂を救ったシンジくんは、友達のことも救済。そして、みんなの幸せを考えて、時間を戻すことはせず、ただ、エヴァのないこれからの世界を作ることにしたのでした。

 

Dパート終盤では、新しい世界に降り立ったと思しきシンジくんが胸の大きな良いお姉さんと山口県宇部市宇部新川駅で顔合わせ。ふたりは手を繋いで跨線橋の階段を駆け上がって駅の外へ、空撮グルグル……そして終劇へ……

という感じ。

 

それで、当たり前なんだけど……ラストの宇部新川駅にいたのは、旧世紀版のような苦しみの中のシンジくんではありませんでした。

旧世紀版の終盤のような、「自分は存在してもよいのだ」という自己肯定が出来るようになったゼロスタートなシンジくんも、他者の存在に怖がりつつもゼロスタートなシンジくんも、もういなかった。そこにいたのは、自信をもってふたりで次のステップに進もうとする、姿も声も大人びた碇シンジでした。

 

もちろん、新劇場版のシンジくんは努力が報われなかったり、理不尽な目に遭っていたから、幸せになってほしかったし、報われてくれたのは本当に良かったと思う。

それに、劇中のCパート、Dパートで「大人」になったつよつよシンジくんだってもちろん魅力的。『破』の「シンジさん」すらも乗り越えたシン・シンジくんともいえる姿であり、いちばん求められていたシンジくんでした。

また、思えば「マイナスからゼロに」という物語は旧世紀版で終わっているんだから、次にやるべきなのは、当然、「ゼロからプラスに」という物語。その点でいえば『シン』は旧世紀版の続編として完璧な役割をこなしていました。

 

……しかしながら。

旧世紀版両最終話に寄り添ってもらった人のひとりである私としては、人の弱さや醜さを認めつつ私を前に向かせてくれるような、改めてもう一度人生に寄り添ってくれるような物語になってくれないかな……とどこかで思っていたのも事実でした。完璧なシンジくんの姿ではなく、幸せの中でも転びつつ、苦しみながら前進する姿を見たかった。

「あなたは不幸なシンジくんを見たいのか?」と問われれば、はっきり否定することはできないかもしれません。うじうじしながらも怖がりながらも進んでいく彼を、いつまでも隣で見ていたかった。

でも本作は――少なくとも私にとっては――先を歩く彼の背中を見ることしかできないつくりの映画になってしまっていました。

 

これは私の解釈ですが*8、旧世紀版はすべての弱い人のための物語だったと思います。

どんな弱い人であっても「でも、ここにいていいかもしれない」という希望を握りしめながら、傷つきながら這い上がって、生きていこうという汚くも美しい物語、という印象だった(再三ですね)。

 

一方で『シン・エヴァ』のシンジくんは、人の優しさに気づいて、立ち上がり、今度は人のために頑張ろうとする、もう、それはもう強い人物になりました。でも、特に今の、格差が広がりつつあり、まさしく閉塞が拡大してきているこの時代に、そんな風に強く「在る」ということって……なかなか難しくない? という風に思ってしまうのです。

 

少なくとも初回鑑賞後の私には、あのシンジくんのスタンスに共感し、その姿を肯定する力はなかった。

旧世紀版を観て勇気をもらってゼロスタートを切ったところで、まだまだふらふらメンタルだった私。そんな自分に必要だったのはゼロスタートをしたその足場を踏み固めることだったのに、『シン・エヴァ』が提示してくれたのはその先のロールモデルだった……。

まず感じたのは、そんな印象でした。私にとってはね。

 

とにかく、『エヴァンゲリオン』シリーズが私のメンタリティとは別のルートを辿って完結を迎えてしまったのがはっきりわかってしまったことで、置いてけぼりにされてる気がして……それがすごくさみしかったのです。

もちろん、『エヴァ』には私に寄り添う義務はないし、シンジくんが私より先に進んではいけないなんて法はない。

それはわかってるけど、でも、たださみしかったのです。

 

この時に感じたのが、表題にもある「ああ、『エヴァ』はわたしの人生の物語ではなくなったんだな」ということ。

ここ数年でようやく私は『エヴァ』とのラグランジュ点に到達できたと思っていたんですが……その均衡も長くは続かず、気づけば『エヴァ』は新しい軌道を描き、私の元からあっという間に遠ざかっていたのです。

 


初回の鑑賞からしばらくして。

前述のような感情に覆われていた私自身も、少し落ち着きを取り戻しました。

 

鑑賞後には、それこそいろんな、酸いも甘いもな意見や感想や考察を読みました。

そもそも3月の日常は忙しないものだったということもあって、徐々に「まあ別に意外とあれはあれでよいものだったのではないか」「わりかし綺麗に終わっていたのではないか」「少なくとも『激突!轟天対大魔艦』は良かった」「とりあえず私が『エヴァ』と知り合えたことは誇りにしていきたいなあ」と思えるようになっていました。

 

『シン・エヴァ』には「ヒトには常に希望という光が与えられている。だが、希望という病にすがり、溺れるのもヒトの常だ」という冬月先生のセリフがありましたが、いま思えばこのセリフはそのまま私に突き刺さるものですね。

要は「『シン・エヴァ』が人生に寄り添ってくれるかもしれない」という希望に溺れていたということ……てかそもそも、「作品が私と同じ歩幅でいてくれなかった😢」というのはあまりにひとりよがりで傲慢なんですよね。

 

鑑賞からの時間が経つにつれ、傲慢だったかつての自分を少しは俯瞰できるようになった私。くしくも第3村でのシンジくんの日々=「なんだかんだで『問題』は時間が解決してくれる」ということを、身を持って知ることとなったわけですが……これはもしかしたら「大人」というヤツになってしまったのかもしれないし、単にシリーズ自体がどうでもよくなったのかもしれない。それはいまでもよくわかりません。

 


そして、時は流れ、2021年4月中旬。

 

「どうでもよくなったのかもしれない」とはいえ、でももう1回くらい劇場で観ておきたい気持ちはあるな……あと『激突!轟天対大魔艦』も映画館で聴いておきたいな……と思っていたさなか。破竹の勢いで飛び込んできたのが、「『シン・エヴァIMAX版上映終了」というニュースでした。

 

IMAX。通常の映画館よりも縦に長い、正方形により近いスクリーンを使った上映システムです。

てっきり私的・初IMAX鑑賞作品はクリストファー・ノーラン監督の次回作になるものとばかり思っていましたが、「上映終了」の文字を見てしまったからには、この機を逃すわけにはいかなかった。

 

ということで我々は一路、例のIMAXシアターへ向かいました。

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前回は期待期待アンド期待というメンタリティで臨み、心の中で泣きを見た『シン・エヴァ』。

しかし、2回目は違います。

もうだいたいの流れは分かっている。

しかも、いろんな意見や感想や考察も読んだ。

なにより、もはや『エヴァ』は「わたしの人生の物語」ではないし、もはやシンジくんと私の歩幅は違うのだということも理解した。

 

そんな想いを抱きつつ、「まあ、でも、いいでしょう。今回は国内最大級のIMAXシアターで、しっかりストーリーを追って、国内トップクラスの映像と音響を楽しむことにして差し上げよう」。

そう思って臨んだ結果……ガン泣きしました😢

 

今回は映画と人生と距離を保ち、ひとつの映画として、シンジくんの成長譚として鑑賞したわけですが……

初回では「シンジくん、あっさりと元気になっちゃうんだな……非現実的、バッカみたい」と思っていたAパートこと第3村のシークエンスですが、改めて観ると非常に丁寧に描かれていることがわかりました。

最初はふさぎ込んでいたシンジくんが、思いがけない人々との邂逅の連続を経て、思う存分涙を流し、涙が枯れたあとは生きるためにご飯を食べて、そして、まずは自分にできることをひとつずつやっていく。そうして人は立ち直っていくものだし、立ち直れるものなんだと、映像を通して伝えようとしていることが感じられました。

シンジがまだ半分リリンであるということ、また第3の少年に好意を抱くようにプログラムされているというアヤナミシリーズの設定も、結果的に被救済要因のひとつになっていたし、その設定が上手く生きていて、無駄のない構成になっていたことに気づいたのもこの2回目のことです。

 

他者に手を差し伸べられたシンジくんはその手をつかむことで初めて立ち上がり、今度は自らの手を他者のために差し出していく。

人が他者との関係で失ったものを取り戻すには、他者との関係の中で取り戻さなければならないのだということ。そして、その関係の中で立ち直って初めて、他者に手を差し伸べられるのだということ。手を差し伸べられた者はまた手をバトンのように差し伸べて……という人間関係のエッセンスが、作品の根底には流れていました。

紛うことなき人間賛歌の物語。

そんな、人間に対する希望が全編に満ち溢れていると気づいた私は、ミサトさんが登場するシーンで軒並み涙を流していたし、『VOYAGER~日付のない墓標』が流れるなかで行われるネオンジェネシスのシーンでもガン泣きしていたし、8+9+10+11+12号機が迎えに来たシーンでも嗚咽を漏らしていました。

あと、ちょっと地味かもしれないけどヴンダーから生命種保存カプセルが射出されるところもよかった。旧世紀版には「第一始祖民族」という存在が太古の地球に「生命の源」である2つの月を向かわせたことで人類や使徒が生まれた、という設定があったはずですが、あの射出シーンを観た時にその設定が頭に浮かびました。そして、あのカプセルは「人類補完計画の発動によって絶滅しかねない地球生命を守りたい」という加持さんの遺志を汲んだもの……。もしかしたら第一始祖民族という人たちもそんな思いで月を遠い宇宙に放ったのかもしれないな、と思い、ちょっとここでもうるっときた。

 

そして、この「映画と人生を切り離す」という見方をしたことで、「人にもモノにも適切な距離感で接すること」が重要であると改めて感じました。

以前、進学支援団体FairWindの人たちとお話した時のことですが、現代文の問題で選択肢が上手く選べないし文章の構造を上手くつかめないしどうしたらいいですか? と質問したら「感情移入せず、一歩引いて読む」ということを教えてくれたのを思い出しました。

これは大学入試だけじゃなくて『シン・エヴァ』にも活用できたんだね……点と点が繋がった気分でした。

 

前述のとおり、私は『シン・エヴァ』2回目を経たことで、この作品を「人間の可能性を信じる人々による純粋な人間賛歌の物語」と捉えることができるようになりました。

真希波・マリ・イラストリアスの「意志と知恵を持つ人類は、神の手助けなしでここまで来てるよ、ユイさん!」というセリフがあったけど、この映画の美しさはこの言葉に詰まっているように思いますね。

手を取り合い、生き残るため、残された人類がよりよくこれからを歩いていけるように奮闘する人類の希望に満ちた姿。その美しさに浸った『シン・エヴァ』2回目でした。

 

まさしく、「そんなに人間が好きになったのか、庵野秀明*9」という気持ち。

もちろん、IMAXシアターという最高の環境で観られたという興奮、感動も込みだったんじゃないかと思うんだけど、映画との向き合い方でこんなにも感想が変わるんだね、とちょっと驚きのあった回となりました。

 


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冗長になってしまいそうだし、急ではあるけど今日はここまでにしよう。

 

本当はその後で『3.0+1.01』も観たし入場特典『EVA-​EXTRA-EXTRA』に収録された『EVANGELION:3.0(-120min.)』も読んだからそれについて少し書こうと思ってたんだけど、試しに書いたら構成として少し汚くなってしまう感が否めなかったので、立つNHG跡を濁さずの気持ちを持ってここで筆を置くことにするね*10

でもせっかくなので画像だけ貼りました。

 

こうして書いてみると、自分の中のぼんやりとした『エヴァ』の立ち位置が少しはっきりした気がします。『シン・エヴァ』を経て「着かず離れず」という距離感がいちばんちょうどいいことが分かって、晴れて「わたしの人生の物語」ではなくなった『エヴァ』シリーズ。強い執着がなくなったことで、無事に卒業することはできたのかな? 少なくともいい感じの距離感を掴むことができるようになった気がするけど……どうでしょう。

 

でも、「着かず離れず」って……これは添い遂げるタイプの夫婦の距離感だってなにかで見た気がする。あれ? つまりそれだと私の人生の物語になるのか?

……というところで思い出した、先日のフィナーレ舞台挨拶での緒方恵美さんの言葉を引用しておきます。

「今更ですが、『シン・エヴァンゲリオン』の最後にはリピートマークが付いておりますので、何度も繰り返して観ていただくことの中で、またご自身のその時の記憶と向き合って、新しい発見があられるんだと思いますし、私自身もこれからずっとそうなんだろうな、と思います」

どうやら、『エヴァンゲリオン』シリーズとの距離感は今後も変わっていきそうだし、今後観るたびに新しい視点を人生にもたらしてくれるような気がします。

まあ、でも多分、『エヴァ』はそういうものなのでしょう。

 

長くなりましたが以上です。

私以外で「『シン・エヴァ』だめだわ、つらいわ」と思ってしまった方が今後いかにこの現実を生き延びていくべきかの答えを探す旅の一助になる……ような記事は書けなかったような気がしますが、もしこの記事で救われた魂があったなら、私は嬉しい。

で、もし「読んでも全然だめ。怒りと悲しみの累積。」という感じになったら、その拳は(誹謗中傷にならない程度に)振り下ろしてほしい。あなたにしか振り下ろせない拳がきっとあるはずだから。私もできる限り応援します。当然、法に触れない範囲でね……!

 

それでは、またね!


*1:Wikipediaの当該記事においては、正式な表記が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(リピート記号付)』であるとしている。しかし、その表記を正式なものと明言しているソースは管見の限りニュースサイトの映画ナタリーのみであり、公式サイト/SNS等においてもロゴマークを除けば基本的にはリピート記号無しの表記が使用されている。またリピート記号も「記号としての1文字のリピート記号」を用いるのか「:||(コロン/縦線/縦線」と表記するのかという点で表記揺れが起きている状態にある。これらの理由を鑑み、本記事ではリピート記号を用いた表記を使わない方針をとることとした。まあ、でも、気分で変えると思うしわりとどうでもいい。

*2:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の略称が『シン・エヴァ(中黒有)』なのか『シンエヴァ(中黒無)』なのか、ということは公開当初から個人的に大きな問題であった。Wikipediaの当該記事でも前述の2通りの表記が略称として掲げられているが、ページの閲覧時点でそのソースは明記されていなかった。より正式的な表記を調べるためにTwitterの「カラー公式 (@khara_inc)」「カラー2号機 (@Khara_inc2)」「Evangelion Official (@evangelion_co)」のツイート履歴をさーっと見てみたところ、基本的にタイトルは略すことなく表記しており、略称には逐一ハッシュタグをつけて「#シンエヴァ」という表記を用いているようだった。しかし、これは表記揺れやハッシュタグが中黒で切れてしまう現象――もっとも、その仕様は何年も前に改善されているが――の回避を目的とした表記であることが否めなかった。そのため、基本的にはハッシュタグが用いられないであろう公式サイトでの確認を行ったところ、閲覧時点における最新ニュース「『シン・エヴァ』7月21日(水)終映。7月6日(火)「続0706作戦」実施決定!7月11日(日)フィナーレ舞台挨拶決定!」において「シン・エヴァ」という表記を確認。よって本記事においても中黒有りの「シン・エヴァ」表記を用いることとしました。でも忘れるときは忘れるのでちょくちょく変わるかもしれません。その時はごめんね🙇

*3:スタジオカラー公式(もしくはその2号機)によるつぶやきを見た記憶があるのにソースが見当たらない……

*4:エヴァが救いにならない時もあるし、全然違う作品が救いになるときもあるということです。

*5:というか、『Q』の内容の意味わからなさで「ああ、もう庵野監督はただただカッコいい船を飛ばしてすごい画を作りたいんだ、新劇場版はそういうシリーズなんだ」と悟った感はあった。悟らざるを得なかったともいえる。

*6:言いたかっただけ。

*7:診断書が出ている描写はないので、「うつ状態」とした。

*8:この記事の解釈は基本、私の解釈である。当たり前ですが。

*9:「人間は嫌い」と「人間賛歌は好き」は両立するのではないかという話もある。

*10:でもひとつだけ言わせて。ポッド発射用艦船の艦名が「マイティK」と「マイティQ」て……「グローリー丸」に続いてどんだけ好きやねん!