だきしめて藍蘭島

 

 

小さい頃に絵本やぬいぐるみをよく抱きながら眠る子供だった。多分多くの人がそうだったと思っている。
この間電車で遠くへ行ったその帰り道に、おそらくサンリオか何かのキャラクターのぬいぐるみを抱きしめていた子供を見かけた。彼女もきっとあの頃の私と同じように病める時も健やかなる時もぬいぐるみを手放さないはずだ。
小さい時分は何故片時も自分の「好き」を物理的に手放さないのだろう。安心毛布という言葉があるように、どんなものでも寂しさなどの不安を解消してくれるはたらきがある。これはある種の依存であると捉えられるが、大人の安心毛布は確かにそういった用途であると理解できるが、子供の場合は最初に自他ともに認められた誇り高い自分への「レッテル」であり、「相棒」としての役割の方が大きいような気がする。イマジナリーが生み出す幻想を大人になるにつれ忘れていくように子供たちの安心毛布には一種の精霊が宿っているのかもしれない。大人になるにつれそれが「縋り付くもの」という認識から切っても切り離せなくなってしまうのはなんというか寂しいものだ。
…どうせなので「身近にあって常に縋り付くものを抱いて寝る」という行為を再び試してみる。
というわけでスマホを枕元に置いて、握りしめながら目を瞑る。
…1分後、ブルーライトからヒカキン監修ラーメンの動画が流されていた。
スマホ依存はほどほどにしようと痛感した。
久々にくまのプーさんが読みたい。